相田 みつを 奪い 合 えば。 相田みつをの名言・格言集。詩。やさしく力強い言葉

相田みつを美術館から、『7つの習慣』をお届け#奇跡のコラボ

相田 みつを 奪い 合 えば

と言っているが、ここで言う『受け身』とはまるで『ブレーキ』である。 車のブレーキだ。 あれが『無い』状態を想像すると良い。 出来ただろうか。 衝突して大事故を起こし、最悪のケースでは無関係の人の命を奪い、自分も入院するか、死の体験をすることになる悲惨な光景の想像が。 そうならないために『ブレーキ』がついている。 なんのことはない。 自制心でもってそのブレーキを踏みながら、アクセルとのバランスを取り、車を前へと進めていく。 車の免許を取りたての血気盛んな若き青年は、ブレーキをどれだけ踏まずに曲がり角を曲がれるか、とか、信号のない見通しの悪い夜の住宅街で、ブレーキを踏まずに肝試し的に突っ込むとか、そういう浅はかな行動に出てしまいがちである。 しかし、彼らはその浅薄さを思い知ることになるだろう。 例え、その運転のシーンで事故を起こすことはなくても、違うシーンで、そこで植えついた思い上がりの考え方に鉄槌を食らわせられる状況に直面する。 ブレーキとはまるで、馬に付ける『馬銜(羽目)』である。 馬が暴走しないように、コントロールする為に口に着ける金具だ。 『羽目を外す』というのは、馬がその馬銜を外して野性に戻ってしまう様に、理性のタガが外れて衝動的になる人間の様子を言った言葉であるが、我々は、羽目を外したら最後、あっという間に社会的秩序を破壊する危険因子に成り下がり、気づいたら取り返しのつかない後悔に襲われることになるのだ。 我々が暴走しかけた時に、馬銜がグッと口に締まって、許容範囲を矯正する。 その繰り返し、積み重ねで、人間は自分の許容範囲、可動範囲の実態を完全に把握し、その後にようやくその範囲を広げることが出来るようになる。 まずは、『自制することに対する見解』を変えるべきだ。 自制することは『恥』ではなく、むしろ『矜持』である。 人前でブレーキをかけることは『恥』ではない。 むしろ、『恥をかかないように自制』することや、『ブレーキをかけ忘れたことを隠蔽する』ことが『恥』なのであり、ブレーキをかけていいのだ。 ブレーキを外したり、ブレーキの点検をしないことは大惨事を招く原因となる。 ブレーキがあるから、人は思い切って前進できるのだ。 ブレーキをかけながら、時間をかけて確実に駒を進めていけばいい。 私の知人でも、その『ブレーキ(自制心)』をないがしろにし、行くところまで行ってしまった人間も、一人や二人ではない。 確かに彼らのスピードは速かった。 だが、その走行時間は、短かった。

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相田みつを『柔道の基本は受身 受身とはころぶ練習 負ける練習 人の前で恥をさらす練習』

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相田みつをの生涯 1924年5月20日、相田みつを(本名は相田光男)は栃木県足利市に6兄弟の三男として生まれる。 相田は旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しむも、喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念。 卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。 1942年、18歳のときに歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学ぶ。 翌年に書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積んだ。 相田は書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に連続入選するなど、技巧派の書家として出発した。 しかし、専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書くスタイルを確立した。 1954年、30歳のときに最初の個展を足利市で開催。 個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。 1984年、60歳のときに出版した詩集『にんげんだもの』が契機となり、相田みつをは広く知られるようになる。 後に『にんげんだもの』はミリオンセラーとなる。 1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院するも脳内出血と診断される。 1991年12月17日、相田みつをはそれが原因となり急逝、67年の生涯を閉じた。 1996年にが開館。

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相田みつをの名言・格言集。詩。やさしく力強い言葉

相田 みつを 奪い 合 えば

旅館なか川初代女将 中川 光子 現在使用されている箸袋 作品が出来る度に持ち込む相田みつを先生。 旅館中に相田みつを先生の作品が飾られるようになりました。 皆様がよくご存知の『人間だもの』は、旅館なか川の応接間に飾られていた作品です。 しかしその後も、なか川以外では殆ど作品を買ってもらえず・・・生活に困っていた事情を知った女将の中川光子は、「今度は旅館の看板を書いてみるかい?」と声をかけました。 光子のこの言葉でなか川の看板を製作。 「へぇ~上手なもんだね~。 それなら看板だけでなく、次はうちの各部屋に飾る部屋札や箸袋に、マッチ箱なんかもいいねぇ~。 各部屋にちなんだ作品なんかもデザインしなよ!」 こうしてなか川は、相田みつを先生の奇妙な字があちこちに存在する旅館になったのです。 今でも、先生がデザインした看板やおてもと、マッチ箱など多くの作品がお店で使われいます。 日々、なか川に訪れるようになると相田みつを先生は作品を持ってくるだけではなく、夕方になるとご飯を食べに来るようになります。 そのとき…必ず出されていた定番料理が『甘露煮』でした。 女将との約束で、日本酒は一日一合までと決められ、『甘露煮』を肴に今日の出来事を楽しく話しながらお酒を飲んでいたものでした。 現在のなか川では『にしんそば(相田みつを風)』として食べることができます。 当時はフナやハヤ・にしんや鮎など様々な魚の甘露煮をなか川2代目が作っていたものをお酒の肴として食べておりました。 現在、にしんの甘露煮をめん割烹なか川で食べることができます。 甘露煮は、ご自宅や贈り物に「お土産(500円)」としても大人気です。 甘露煮の入ったにしんそば• 相田みつをが食べていた甘露煮• 日本酒を楽しむ相田みつを 昭和20年 旅館なか川創業 昭和20年頃 相田みつを、旅館なか川を訪れ、約50年の交流がはじまる。 昭和27年 相田みつを、初代女将光子の孫、泰彦(3代目)、治美、玲子の家庭教師をする。 昭和30年 現相田みつを美術館館長、相田みつを長男の一人氏誕生。 あまりの嬉しさのため、 「一人誕生の歌」を書いた二枚屏風をなか川に持ち込む。 昭和34年 光子が相田みつをに1回目のアトリエをプレゼントする。 昭和37年 光子が亡くなる。 相田みつをが葬儀委員長となる。 昭和41年 「母から意思は継いでいる」と、なか川2代目、彦一郎が2回目のアトリエをプレゼントする。 昭和47年 三代目泰彦が結婚。 結婚のお祝いに「心」という作品をプレゼントされる。 昭和59年 旅館なか川から、めん割烹なか川へ。 「ここが私の出発点だから、私の一番のお気に入りをもってきた」と「水」という作品を開店祝いで頂く。 平成3年 12月17日、相田みつを、足利市内の病院で永眠。 享年67歳。 平成8年 東京銀座に相田みつを美術館が開館。 作品の貸し出しを企画展ごとに行う。 平成15年 相田みつを美術館が東京国際フォーラムへ移転。 平成16年 テレビ朝日「にんげんだもの相田みつを物語」が放送。 めん割烹なか川もその舞台として、主演の木梨憲武さんなどが撮影に訪れる。 旅館として物語にも登場。

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