博多 万葉。 福岡スーパー銭湯「博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯」口コミ&情報まとめ

博多中洲 旬菜万葉

博多 万葉

基本情報 公式HP 入浴料• 1000円 (時間制限ナシ・中学生以上のみ) 入館時に申込で、800円• 友の会会員・特別会員:900円 入館時に申込で、600円• 一度に2種類の温泉に入れるのはここ「 博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯」だけ。 お湯に自信があるから、露天風呂と大浴場の2つのお風呂で勝負。 「泉質がいい」と評判のお湯は一度訪れるべき。 落ち着いた空間で、心ゆくまで、ゆっくりと満喫できそう。 manyo. フリータイム制の岩盤浴は、時間を気にせず、汗を流しリフレッシュしたい時におすすめ。 施設や見どころ 万葉の湯は、 宿泊も可能な24時間営業スパ。 博多駅から車で5分のアクセスで、佐賀県の高雄温泉と大分県由布院の名湯に入れる穴場スポット。 料金は高めだが、 浴衣やタオル、アメニティも充実しているので手ぶらで来やすい。 食事処は、個室がある「万葉庵」と無料休憩室も兼ねた「憩い処」の2ヶ所。 郷土料理から軽食・デザートまで幅広く揃えてあるメニュー。 お風呂や岩盤浴 以外には、リラクゼーション施設も豊富。 湯上がりに体をほぐし、日頃の疲れを癒やしてくれます。 また、休憩処は、リラックスルームと臨時仮眠室の2ヶ所。 他にも、 漫画も充実している読書処・子供が遊べる キッズスペース・カラオケルーム・インターネットコーナー・ゲームコーナーなども完備。 3歳以下の子供は大浴場に入れないので、比較的 子連れの人たちは少なめ。 休憩室も充実しているので、大人がゆっくり楽しめる施設です。 博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯の口コミ 【福岡県福岡市】 実は、福岡空港に一番近い宿?普通にビジネスホテルとしても使える「博多 由布院・武雄温泉 万葉の湯」。 — 福岡県を勝手にPR fukuokapr1 一部の方々には有名ですが、博多の温泉郷 万葉の湯のシャトルバス、ほぼ高槻市バス時代のままですね。 15年以上前の撮影ですがこのバスを天神で見た時は驚きました。 そして今のように携帯でなかなかシャトルバスの時間など調べられず・・。 — SBZ TTakashi58 「博多 由布院・武雄温泉 万葉の湯」由布院温泉と武雄温泉の湯を運ぶ都市型温泉館。 和風庭園がある内風呂、露天風呂、貸切内風呂がある。 テレビつきのリクライニングチェアを置いたリラックスルームは好評。 — tavinosora tavinosora おはようさんばい。 いゃ〜ぁ寒うなったばい。 ここJR博多駅近くのスーパー銭湯「万葉の湯」。 先週行って来た。 今日も一日仲ようしちゃんしゃい。 — まあ、よかたい。

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博多 由布院・武雄温泉 万葉の湯 (ハカタユフインタケオオンセンマンヨウノユ)

博多 万葉

司会 『 万葉集(まんようしゅう)』は、八世紀の奈良時代に生まれた大歌集ですね。 大宰府政庁の高官(小弐)だった 大伴家持(おおとものやかもち)(養老二?~延暦四・718?~785)が編纂した歌集だと知ると、親しみを感じます。 坂本 長官(大宰帥)(だざいのそち)だった父の 大伴旅人(おおとものたびと)(天智4~天平3・665~731)も、大きく関わり、周囲には万葉歌人の 山上憶良(やまのうえのおくら)や、 沙弥満誓(さみまんぜい)らがいた。 壮観ですね。 『万葉集』は、ながく勅撰歌集と考えられていましたが、江戸時代の国学者、契沖(けいちゅう)(寛永十七~元禄十四・1640~1701)が九百年間の定説をひっくり返して、「大伴家持私撰説」を唱(とな)えたのです。 現在では、数次の編纂過程を経て、おおむね、今の形の『万葉集』にまとめあげたのが大伴家持だろうといわれています。 本田 万葉集は筑紫(福岡県)にたいへん縁が深いのですね。 先生にさらに、引き寄せていただければ。 坂本 万葉集は千二百年前の歌集ですが、現在でも新鮮です。 では家持の代表的な、春の歌に浸(ひた)りましょう。 四世紀から八世紀の約四五〇〇首を二十巻に 司会 万葉集の最初の歌は。 坂本 第一巻の始めの歌は、五世紀の 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(第二十一代)の歌で、最古の歌は、四世紀頃の 仁徳天皇(にんとくてんのう)(第十六代) の妃(きさき)、 磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)の歌です。 万葉集はこの歌から、奈良時代の天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(759)元旦に大伴家持が詠(よ)んだ新春をことほぐ歌まで、四百年の間に詠まれた多くの歌から選んだ歌、四五一六首を二十巻にまとめた大歌集です。 けれども、本格的な万葉時代は、 舒明天皇(じょめいてんのう)(第三十四代・在位629~641)からの約百三十年とされています。 では、舒明天皇が、大和の香具山(かぐやま)に登られての国見の歌を。 大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島(しま) 大和(やまと)の国は (1・二) (大和にはたくさんの山があるが、とりわけ神々(こうごう)しい天の香具山に登り立って、国見をすると、竈(かまど)のけむりがあちこち立ち上(のぼ)っているのが見えるし、広い水面にはかもめが盛んに飛び立っている。 ほんとうによい国だ。 あきづしまこの大和の国は)• 本田 学生時代に習った歌を思い出しましたが、万葉のドアを開ける朗々とした歌ですね。 坂本 これぞ、万葉と、胸が広がります。 そして、庶民の歌も多いのです。 本田 万葉集は天皇から庶民までの素晴らしい歌集なのですね。 坂本 天皇から皇后・皇子・皇女など皇室歌人の歌や、政治中枢にいた貴族たちの歌。 宮廷歌人の歌のほかに作者未詳の官人たちの歌。 東国の農民の歌。 漁師の歌。 さらに防人の歌もあり、女性の歌が多いことも、大きな特徴です。 詠(うた)われている内容は、• 宮廷の儀礼歌や、天皇の行幸(ぎょうこう)歌• 官人たちの旅の歌• 四季の推移や景物の歌• 大宮人の生活と心情の歌• 男女の恋の思いを詠(うた)った歌• 夫婦の愛情の歌• 農民や漁民の暮らしを詠った歌• 防人の思いを詠った歌 と多彩で、貴族も庶民も、実にのびやかに詠(うた)っています。 司会 以前に先生が監修されたNHKテレビの「 日めくり万葉集」は、朝の楽しみの五分間でした。 朗詠の 檀ふみさんが、万葉人のおおらかさが結晶した言葉だと。 坂本 まったく同感です。 こんなに平明でおおらかな詩集は外国にはありません。 日本人の誇りの文学ですね。 本田 そして、「万葉」の題名がいい。 坂本 「多くの言(こと)の葉」という説もありましたが、「葉」は「代」の意味。 「万代の歌集」なのです。 司会 それにしても、権力を握った藤原氏にとって、万葉集はライバル大伴の厄介な遺産だし、都が荒れ果てた 応仁(おうにん) の乱(らん)から、 戦国時代と大変な受難の時代を経て、千二百年前の宝物がよく伝承されましたね。 坂本 それは、天皇の歌が多いからでもあったでしょう。 伝えられた万葉集を公家(くげ)たちが次々に書き写して広がったのです。 司会 だが、当時はまだ平仮名(ひらがな)がありませんね。 坂本 だから、文字の意味とは直接に関係がない漢字の読み(音・訓)を借りて表現したのです。 万葉集に多く用いられているので、万葉仮名といったのですね。 「波仮多」だったら博多とすぐ分かります。 だがよく知られている大伴旅人の梅の歌、 「万葉集が生まれた頃」の八世紀前後の歴史と、古代文学とのかかわりに、タイムマシンでさかのぼってみましょう。 聖徳太子(しょうとくたいし)(~推古三十・574~622)は、万葉集より約百五十年前の方です。 天智天皇(てんじてんのう)の大化の改新(大化元・645)は約百年前です。 十九回実施された 遣唐使派遣(けんとうしはけん)(舒明二~寛平六・630~894)は中ごろ。 菅公さんの 菅原道真(すがわらのみちざね)(承和十二~延喜三・845~903)は、百数十年後の人です。 古代日本史の柱、『 古事記(こじき)』(和銅五・712)と『 日本書紀(にほんしょき)』(養老四・720)。 そして『万葉集』(天平宝字三・759)は、前後半世紀の間に誕生した三大ロマンです。 紫式部(むらさきしきぶ)の『 源氏物語』は、約三百年後の十一世紀の初めごろ。 万葉集との大きな違いは、源氏物語が平仮名で自在に表現できたことです。 「歌集」では『 古今和歌集(こきんわかしゅう)』が延喜五年(905)、または延喜十四年(914)、『 新古今和歌集』が元久二年(1205)で、『万葉集』がずいぶん兄貴分です。 萩の花 尾花葛花(をばなくずばな) なでしこが花 をみなへし また藤袴(ふぢばかま) 朝顔(あさがほ)の花 (8・一五三八) 秋の七種を五七七・五七七と旋頭歌で詠んでいます。 指を折りながら教えたのでしょう。 本田 春の七種は、「 せり・なづな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ春の七種」と覚えていましたが、憶良さんが先輩でした。 (笑) 坂本 「 仏足石歌(ぶっそくせきか)」は、奈良の 薬師寺(やくしじ)にあるお釈迦(しゃか)様の仏足石のそばに残されていた、仏徳を讃える二十一首の歌の形式で五七五七七七。 万葉集に一首だけあります。 坂本 内容による表現では、「 相聞(そうもん)」「 挽歌(ばんか)」「 雑歌(ぞうか)」の三つに分けられます。 相聞は男女間を中心として、個人の心情を伝える歌で、兄弟や親族、友人との交流も含まれます。 まず、久住山を詠った恋の歌から。 万葉の頃の名は、「朽網山(くたみやま)」でした。 ……白玉(しらたま)の 我(わ)が子古日(ふるひ)は 明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は しきたへの 床(とこ)の辺(へ)去(さ)らず 立てれども 居(ゐ)れどもともに戯(たはぶ)れ 夕星(ゆふつづ)の 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり 父母(ちちはは)も うへはなさがり さきくさの 中にを寝むと 愛(うつく)しく しが語らへば…… (5・九〇四) (……白玉のようなわが子古日は、朝になっても床の辺りを離れず、立ってもすわっても共にたわむれ、夕方になれば、さあいっしょに寝てよと手を取って、「お父さんもお母さんも僕のそばを離れないでね。 真ん中でぼく寝るんだから」と、かわいらしく言うものだから) 本田 子ども古日の描写が涙を誘いますね。 坂本 都府楼の背後の大野山を詠んだ憶良の「日本挽歌」の反歌もいい。 風交(ま)じり 雨降る夜(よ)の 雨交じり 雪降る夜(よ)は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに(略) 我よりも 貧(まづ)しき人の 父母(ちちはは)は飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞ふ 泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る(略) (5・八九二) (風に雨の夜、雨に雪の夜は、どうしようもなく寒いので、堅塩を少しずつつまんで口に入れ、酒粕を溶いた酒をちびちびすすって、咳(せ)きこんでは、鼻汁をすすり(略) 私よりも貧しい人の父母は、飢え、寒がっているだろう、妻や子どもは物をせがんで泣いているだろう。 万葉学の泰斗(たいと)、 犬養孝(いぬかいたかし)先生(明治四十~平成十・1907~1998)が書かれた『 万葉の旅』で、筑紫を詠んだ万葉歌が多いことを知りました。 坂本 この名作は、犬養先生が万葉の故地を丹念に歩いて確かめられた。 大変なご労作です。 司会 で、詠まれている万葉風土は。 坂本 北は宮城県の 涌谷(わくや)(宮城県遠田郡涌谷町)と新潟県の 弥彦山(やひこさん)(西蒲原郡弥彦村)から、南は最南端の鹿児島の 黒之瀬戸(くろのせと)(長島町と阿久根市の間)にまで及びます。 涌谷は日本で初めて金を産出した所として有名です。 東大寺の大仏の鍍金(めっき)は、涌谷の金でかなえられたのです。 聖武帝(第四十五代)は喜悦して、年号を「天平感宝元年」に改元された。 長官の帥(そち)、次官の大弐(だいに)・少弐(しょうに)のもと、官人約五百名。 中央政府と九州各国との間に置かれた特別行政府であった。 坂本 そして大伴旅人を囲む歌人たちがいた。 大宰府は万葉の宝庫ですね。 旅人が大宰帥に任じられたのは、六十四歳の時。 旅人を迎えて、山上憶良や 小野老(おののおゆ)、 沙弥満誓(さみまんぜい)ら、官人や僧の 筑紫歌壇が出現したのです。 旅人が、赴任早々に同伴の妻を亡くします。 それで旅人と家持(当時十歳)親子の世話をするために筑紫へ下ってきたのが、旅人の妹である 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)で、彼女もすぐれた歌人でした。 高齢の旅人が妻を亡くした悲しみの一首が、 世の中は 空(むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり (5・七九三) (世の中は空しいものだと思い知った今こそ、いよいよ益々悲しく思われることだ) 万葉集巻五の冒頭にあるこの歌を契機に、筑紫歌壇が展開されたと言ってもいい歌です。 息子の家持は、この少年時代の三年と、後に、大宰の少弐としての三年。 合わせて二回約六年大宰府にいました。 旅人と家持は、大宰府とたいへん縁の深い親子ですね。 万葉歌が富山県に多いのも同様で、少壮の家持が二十七歳で越中守となり、五年間越中の歌人たちとふれあったからで、「 越中歌壇」と称されています。 旅人が大納言(だいなごん)に昇進して帰京する時に、国防のために築かれた水城(みずき)に立って詠んだ筑紫での最後の歌もいい。 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 古(いにしへ)に ありけることと 今までに 絶えず言ひける 葛飾の 真間の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿着(あをくびつ)け ひたさ麻(を)を 裳(も)には織(お)り着て 髪だにも 掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行(ゆ)けども 錦綾(にしきあや)の 中に包(つつ)める 斎(いは)ひ児(こ)も 妹(いも)に及(し)かめや 望月(もちづき)の 足(た)れる面(おも)わに 花のごと 笑(ゑ)みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 湊入(みなとい)りに 船漕(ふねこ)ぐごとく 行(ゆ)きかぐれ 人の言ふ時(略) (9・一八〇七) (東(あずま)の国に、古(いにしえ)にあったことと今日までたえず言い伝えられてきた話だが、葛飾の真間の「手児奈」が、麻の服に青い襟を縫い付け、麻だけで織った裳を着て、髪さえもくしけずらず、沓(くつ)さえ履かずに歩いていても、錦や綾にくるまれた箱入り娘でも、この娘に及ぼうか。 満月のようなまん丸の顔で、花のように微笑んで立っていると、夏虫が火に飛び込むように、船をふためき漕ぎ集まって来るように、寄り集まって男たちが求婚するとき) 反歌 勝鹿の 真間(まま)の井(ゐ)を見れば 立ち平(なら)し 水汲(く)ましけむ 手児名し思ほゆ (9・一八〇八) (葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って、水を汲んだという手児名が偲ばれる) 少し略しましたが、「真間」は千葉県市川市。 入水(じゅすい)した伝説の美女を詠った長歌で、描写の妙にひかれます。 本田 万葉集の長歌は、今のルポルタージュの役目も。 興味深いですね。 なにか示唆(しさ)を受ける歌は。 坂本 沙弥満誓の 韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを 置(お)きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして 他田舎人大島(をさたのとねりおおしま)(20・四四〇一) (韓衣の裾に取りすがって泣く子らを残し置いてきたのだ。 母親もいないのに) 司会 そこで、ひとつ。 気になることを。 大伴氏は上古以来、朝廷と国を守る武門の家柄でしょう。 防人を動員し、内外に備えているときに、武門の棟梁が、文雅に没頭していていいのでしょうか。 坂本 なるほど。 だが養老四年(720)の隼人(はやと)の乱の時には、旅人が「征隼人持節大将軍」として鎮定しています。 家持には、一族の浮沈をかけたたいへんな時に詠んだ雄雄(おお)しい「族(うがら)を喩(さと)す歌」(20・四四六五)があり、その反歌には 遣唐(けんとう)・遣新羅使(けんしらぎし)と荒海 司会 筑紫万葉といえば、遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)一行の歌も多いですね。 十五回渡海した国家プロジェクト。 使節ほか100人から500人が4隻の帆船で渡航。 吉備真備、空海らが、文化と制度を持ち帰った。 山上憶良も渡唐している。 唐の衰運とともに菅原道真の建議で中止。 日唐途絶の折も大陸との窓口の役目を果たした。 坂本 これは遣唐使節の一員のわが子へ、母親の歌です。 博多生まれの大津の皇子 司会 筑紫万葉を伺いましたが、ほかに博多に縁の深い万葉人は。 坂本 それは、もう 大津皇子(おおつのみこ)です。 百済(くだら)救援で那の大津と呼ばれた博多に下っていた大海人皇子(のちの天武天皇)の第三皇子として出生。 万葉集に悲哀のページを遺しています。 当時の皇子や皇女の命名は、養育した氏族名を付ける方法と(草壁皇子(くさかべのみこ)は日下部(くさかべ)氏が養育)、生地の名を付ける方法があり、博多の那の大津で生まれた皇子に、大津の名が付けられたのです。 母は天智天皇の皇女 大田皇女(おおたのひめみこ)で、 持統天皇は大田皇女の妹です。 大津皇子は天武天皇の死後、謀反の罪をきせられ、二十四歳で自害させられた悲劇の皇子で、今も涙を誘われます。 司会 那の大津と言えば、その時代の大陸の使節を迎えた筑紫の迎賓館、「 鴻臚館(こうろかん)」の場所が確定したのも万葉歌からでしたね。 坂本 この話は、地元の貴方が……。 司会 どうも。 その仔細は、、専修大学の 亀井明徳先生のお話「」に尽くされています。 場所は今その町名はありませんが、江戸時代に、現博多区の蓮池あたりにあった官人町と推定され、大正時代までの通説だったそうです。 その説を、九州大学医学部の、古代史と考古学に詳しい 中山平次郎教授が、「遣新羅使節一行」が詠んだ万葉集の歌の展望を参考に否定。 平地の官人町では歌の情景を展望できない。 高台からの展望だと断定されたのです。 鴻臚館は、迎賓館ですが、遣唐使や遣新羅使など、対外派遣の要人たちも利用していたのです。 坂本 参考にされた情景描写は 志賀(しか)の海人(あま)の 一日(ひとひ)もおちず 焼く塩(しほ)の 辛(から)き恋(こひ)をも 我(あれ)はするかも (15・三六五二) (志賀の海人(あま)が一日も休まず焼く塩のように、からい恋さえ私はするのだ) 志賀(しか)の浦に 漁(いざ)りする海人(あま) 家人(いへびと)の 待ち恋(こ)ふらむに 明かし釣る魚(うお) (15・三六五三) (志賀の浦で海人(あま)たちは、家人が待ち焦(こが)れているだろうに、夜通しで釣っている魚) 可之布江(かしふえ)に 鶴(たづ)鳴き渡る 志賀(しか)の浦に 沖つ白波 立ちし来(く)らしも (15・三六五四) (司之布江に鶴が鳴き渡っている。 志賀の浦に沖の白波がたってきたのだろう) と、されている。 たしかに高台からの望見であることがうなずけますね。 司会 中山博士は、鴻臚館の場所は福岡城址の一角の高台で、当時の兵営内と論証。 発掘で卓説が実証され、歴史学界を震撼させたのでした。 現在は、福岡城址とともに、福岡市の大切な宝として、記念構想も進展しています 坂本 日本の歴史にかかわる大発見を、万葉集がもたらした。 愉快ですね。 本田 鴻臚館と、万葉集にそんな深い関係があるとは。 いや、驚きました。 使節一行、家持さん、中山教授に、感謝しなければ。 新(あらた)しき 年の初(はじ)めの 初春(はつはる)の 今日(けふ)降る雪の いや頻(し)け吉事(よごと) (20・四五一六) (新しい年の始めの初春の今日降る雪のように、もっともっと積もれ良い事) この年の正月は、元旦と立春が重なる「歳旦立春(さいたんりっしゅん)」。 加えて、豊年の瑞兆(ずいちょう)とされる雪が降っている。 家持は時に四十二歳。 左遷の不遇の中にあって、目出たさずくめの歌で、『万葉集』を締(し)め括(くく)っているのです。 本田 家持の心事の清々しさにうたれますね。 坂本 家持は、万葉集編纂の中心人物であるとともに、レパートリーの広い最多作者で、万葉集の一割以上477首が彼の歌です。 司会 万葉のスーパー歌人ですね。 そして編纂者としての辛苦も。 巻中一首の左注に、「進(たてまつ)る歌の数十二首。 ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載(の)せず」とあります。 (20・四四〇三) 坂本 それは、防人や農民の歌までひろく目を通したからで、中には方言もあり、理解できない歌もあったでしょう。 司会 編纂者、家持さんの、苦衷のつぶやきですね。 それにしても、万葉集の大伴家持の存在感はすごいですね。 その後の歌は。 坂本 万葉集編纂後、生を終わるまでの二十六年間の家持の歌は一首も遺っていません。 家持は衰退する名族、大伴氏を頭領として支えながら、延暦四年(785)に、数えの六十八歳で逝(な)くなります。 大伴氏も古代史の表舞台から消えていきました。 司会 なんとも……。 藤原氏専横の犠牲になったのですね。 万葉を朗々と詠おう 本田 だが、万葉集は、日本人の心に残っていますね。 坂本 たしかに。 一例ですが、私が手伝っている「 高岡市万葉歴史館」のある高岡市(富山県)では、毎年「 万葉まつり」が開かれています。 全歌四五一六首から好みの歌を、全国からの参加者や幼稚園児までが、万葉姿で、ステージで朗唱するのです。 太宰府天満宮が毎春三月第一日曜日に、梅花の下で催されている優雅な行事。 大宰府万葉会主催。 坂本 ともに、奈良時代の文雅を現代に。 素晴らしい催しですね。 司会 お話をうかがって、万葉の心を感じています。 先生が万葉集に惹(ひ)かれるものを結びに。 坂本 喜びも、悲しみも、恋も、自然とのふれあいも。 素直な気持ちを歌にしている。 それにうたれるのですね。 本田 人間がありのままに躍っている。 坂本 そうです。 戦時中に、戦陣に動員された学徒たちの多くが、持参を許される一冊に岩波文庫の『万葉集』を選んだと聞きます。 明日が分からぬ日々に、どのページを開いても、語りかけがある。 何よりの支えだったでしょう。 私にとって万葉集は、折々の気持ちにこたえてくれる、優しい話し相手なのだと思っています。 司会 本日は、心に沁みるお話を、ありがとうございました。 万葉集から あかねさす 紫野行(むらさきのゆ)き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る 額田王(ぬかたのおおきみ)(1・二〇) (紫草の野を行き、標を張った禁野を行って、野守が見ているではありませんか。 あなたが袖をお振りになるのを。 ) 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎(にく)くあらば 人妻(ひとづま)故に 我(あれ)恋ひめやも 大海人皇子(おおあまのおうじ)(1・二一) (紫草が照り映えるように美しいあなたを憎いと思ったら、人妻であるのに、私はこんなに恋しく思いましょうか。 ) 我(あれ)はもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)(2・九五) (私はなんと、安見児を得たぞ。 皆が得がたいと言っている安見児を得たぞ。 ) あしひきの 山のしづくに 妹待(いもま)つと 我(あれ)立ち濡(ぬ)れぬ 山のしづくに 大津皇子(2・一〇七) (あしひきの)山のしずくで、あなたを待って私は立ち濡れてしまった、山のしずくで。 我(あ)を待つと 君が濡(ぬ)れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを 石川郎女(いしかわのいらつめ)(2・一〇八) (私を待ってあなたが濡れたという、(あしひきの)山のしずくになれたらよかったのに。 ) 来(こ)むと言ふも 来(こ)ぬ時あるを 来(こ)じと言ふを 来(こ)むとは待たじ 来(こ)じと言ふものを 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)(4・五二七) (来る来ない 来ない来る じれったい。 もう待ちませんよ。 ) ここにありて 筑紫(つくし)やいづち 白雲の たなびく山の 方(かた)にしあるらし 大伴旅人(4・五七四) (ここ奈良にあって、筑紫はどちらの方角だろう。 白雲のたなびいているあの山の方角であるらしい。 ) 一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 四(し)さへありけり 双六(すごろく)の頭(さえ) 長意吉麻呂(16・三八二七) (説明は不要でしょう。 万葉の人たちのゆとりでしょうね。 ) 石麻呂(いしまろ)に 我物申(われものまを)す 夏痩(や)せに 良しといふものそ 鰻漁(むなぎと)り喫(め)せ 大伴家持(16・三八五三) (石麻呂に私はものを申し上げる。 夏痩せによく効くと言いますぞ。 鰻を捕って召し上がれ。 ) 父母が 頭掻(かしらか)き撫(な)で 幸(さ)くあれて いひし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる 防人 丈部稲麿(はせべのいなまろ)(20・四三四六) (父母が頭を撫でながら、無事で居ろ、と言った言葉が忘れられない。

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福岡スーパー銭湯「博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯」口コミ&情報まとめ

博多 万葉

基本情報 公式HP 入浴料• 1000円 (時間制限ナシ・中学生以上のみ) 入館時に申込で、800円• 友の会会員・特別会員:900円 入館時に申込で、600円• 一度に2種類の温泉に入れるのはここ「 博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯」だけ。 お湯に自信があるから、露天風呂と大浴場の2つのお風呂で勝負。 「泉質がいい」と評判のお湯は一度訪れるべき。 落ち着いた空間で、心ゆくまで、ゆっくりと満喫できそう。 manyo. フリータイム制の岩盤浴は、時間を気にせず、汗を流しリフレッシュしたい時におすすめ。 施設や見どころ 万葉の湯は、 宿泊も可能な24時間営業スパ。 博多駅から車で5分のアクセスで、佐賀県の高雄温泉と大分県由布院の名湯に入れる穴場スポット。 料金は高めだが、 浴衣やタオル、アメニティも充実しているので手ぶらで来やすい。 食事処は、個室がある「万葉庵」と無料休憩室も兼ねた「憩い処」の2ヶ所。 郷土料理から軽食・デザートまで幅広く揃えてあるメニュー。 お風呂や岩盤浴 以外には、リラクゼーション施設も豊富。 湯上がりに体をほぐし、日頃の疲れを癒やしてくれます。 また、休憩処は、リラックスルームと臨時仮眠室の2ヶ所。 他にも、 漫画も充実している読書処・子供が遊べる キッズスペース・カラオケルーム・インターネットコーナー・ゲームコーナーなども完備。 3歳以下の子供は大浴場に入れないので、比較的 子連れの人たちは少なめ。 休憩室も充実しているので、大人がゆっくり楽しめる施設です。 博多 由布院 武雄温泉 万葉の湯の口コミ 【福岡県福岡市】 実は、福岡空港に一番近い宿?普通にビジネスホテルとしても使える「博多 由布院・武雄温泉 万葉の湯」。 — 福岡県を勝手にPR fukuokapr1 一部の方々には有名ですが、博多の温泉郷 万葉の湯のシャトルバス、ほぼ高槻市バス時代のままですね。 15年以上前の撮影ですがこのバスを天神で見た時は驚きました。 そして今のように携帯でなかなかシャトルバスの時間など調べられず・・。 — SBZ TTakashi58 「博多 由布院・武雄温泉 万葉の湯」由布院温泉と武雄温泉の湯を運ぶ都市型温泉館。 和風庭園がある内風呂、露天風呂、貸切内風呂がある。 テレビつきのリクライニングチェアを置いたリラックスルームは好評。 — tavinosora tavinosora おはようさんばい。 いゃ〜ぁ寒うなったばい。 ここJR博多駅近くのスーパー銭湯「万葉の湯」。 先週行って来た。 今日も一日仲ようしちゃんしゃい。 — まあ、よかたい。

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