ルイス ウェイン。 猫で有名な画家「ルイス・ウェイン」作品と心の病

【美術解説】ルイス・ウェイン「統合失調者になった猫画家」

ルイス ウェイン

ルイス・ウェイン(1860年8月5日-1939年7月4日)はイギリスのイラストレーター。 イギリス・ヴィクトリア朝時代に、「不思議の国のアリス」の挿絵を描いたジョン・テニエルらとともに人気を博す。 大きな目の擬人化した猫や子猫のイラストレーションで知られ、人気がピークに達した時期には毎年、彼の作品集をまとめた『ルイス・ウェイン年鑑』なる作品集も発行された。 年間に何百というイラストを描く多作な画家だったが、ビジネス的なセンスがまったくなかったため、著作権対策もせず、出版社には安く作品を買い叩かれる。 晩年になり人気に陰りが見え始めると生活的に困窮。 同時に統合失調症に苦しみ、子猫のイラストもサイケデリック調で幾何学的な形態に変容していった。 ルイス・ウェインは、1860年8月5日にロンドンのクラークウェルで生まれた。 父は繊維業者であり刺繍業者だったという。 母はフランス人の専業主婦。 ルイスは6人兄妹の長男で、ルイス以外の5人はみんな妹だった。 なお、この5人の妹は1人も生涯で結婚しなかったという。 また、ルイスが30歳のときに一番下の妹は狂気に犯され、収容所に送還された。 ほかの4人の妹は生涯の大半を母親とルイスと暮らした。 ウェインは口唇口蓋裂として生まれ、両親は医者から10歳になるまで学校に通わせてはいけないと注意されていた。 若いころウェインは、よく学校を無断欠席して、ロンドン周辺放浪して過ごしていたという。 その後、ルイスは西ロンドン芸術学校に入学し、最終的には短い期間だったが美術教師職に付いた。 しかし、20歳のときにウェインの父が亡くなり、あとに残された母親と5人の妹の生活を養う必要が出てきて、賃金の安い教職は辞めることになった。 辞職後、ウェインはフリーランスのイラストレーターになり、イラストレーターとして成功をおさめる。 動物や田舎の風景を専門に描くイラストレーターとして、雑誌『イラストレイテド・スポーティング・アンド・ドラマティックニュース』で4年間さまざまなイラストレーションの仕事を勤め、また1886年には週刊新聞『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』で仕事を始める。 1880年代までのウェインが描くイラストはイギリスの田舎の農家の風景や農業用の家畜動物に関するものだった。 この時点では、特に猫に固執しておらず、多種多様な動物が描かれ、あらゆる種類の生き物を描き分ける能力があった。 それどころか、当時は犬の絵だけで生計を立てることを望んでいたという。 23歳のとき、ウェインは妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと結婚する。 彼女はウェインよりも10歳年長だった(これは当時のイギリスではやや問題視されることだった)。 二人は北ロンドンのハムステッドに移り、生活を始める。 しかし、新婚生活間もなく、妻のエミリーはガンに冒され結婚3年後に死去。 エミリーが亡くなる前に、ウェインは彼の生涯の自己の主題を発見する。 エミリーが病に苦しんでいるとき、彼女は一晩中、雨の中で泣いていた迷子の 白黒の子猫のピーターを救い出してかわいがっていた。 エミリーの心は子猫のピーターによって大いに癒やされ、それに触発されたルイスはピーターのスケッチを取り始めたという。 猫の絵ばかり描くようになったのは、この出来事がきっかけである。 エミリーはピーターの絵を気に入り、ウェインにピーターの絵本の出版を強く勧めたという。 後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っている。 1886年にウェインは最初の擬人化された猫のイラスト集『子猫のクリスマスパーティ』を出版する。 このイラスト集は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたイラストをまとめたもので、ペーターとよく似た猫が多数描かれた150匹の猫が描かれている。 猫たちはボールを持ったり、ゲームをしたり、手紙を書いたり、演説するなどしている。 この時の猫の絵は、まだ四つ足状態の猫が多く、服も着ておらず、のちのウェインの作品を特徴づけるような人間的なふるまいをする要素は少ない。 ジョージ・アンリ・トンプソンといペンネームでさまざまな児童本の挿絵の仕事をしていたという。 さらに時間が経過すると、ウェインの猫たちは直立して二本足で歩き始め、また口を広げて誇張された表情で豊かに笑い、洗練された現代的な服装を着こなすようになった。 ウェインのイラストには、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞をする猫が現れ始めた。 このような擬人化された動物はヴィクトリア朝イギリス時代で非常に人気が高り、当時のグリーティング・カードや風刺画などでよく見られた。 ウェインやジョン・テニエルの作品はその代表例である。 ウェインは多作な画家として知られており、1年間で何百という作品を描き、以後30年間そのような状態だった。 彼は100あまりの児童書の挿絵を執筆し、ほかにも新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載された。 1901年から1915年には『ルイス・ウェイン年鑑』なる作品集が発売されている。 彼の作品は定期的にポストカードなどで再利用され、今日彼のポストカードはコレクターに大変な人気がある。 1898年から1911年まで彼は国立猫倶楽部の委員長でもあった。 ウェインのイラストは人間の行動をパロディ化されて、その時代の流行やファッションを風刺している。 ウェインは「レストランや公共的な空間にスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間の特徴を残したまま描く。 こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ」と話している。 人気が高かかったにもかかわらず、ウェインはいつも金銭に困っていた。 彼は残された母と妹たちの生活費を1人で稼ぎ出さなくてはならなかったためであるのと、ビジネス的なセンスがほとんどなかったためである。 ウェインは常に控えめで、素朴だったため、相手に作品を安く搾取され、出版世界における権利交渉で権利関係で割の悪い契約をさせられていた。 ウェインは著作権の権利を保護しないまま、自身のドローイングを売り出してしまっていた。 ウェインは簡単に騙された。 それと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していった。 57歳のときに、分裂病の徴候をあらわし始めた。 周囲の人間が信用できなくなり、外部の世界が敵意をもって、自分に襲い掛かってくる妄想に悩まされるようになった。 そうして、彼はひたすら自分の内面に閉じこもるようになった。 同時に、彼が得意としていた可愛らしい猫の絵も、だんだん不気味な変化を示すようになった。 初期のリアルな猫が、やがて幾何学的に様式化され、虹のような華麗な色彩とともに、抽象化の一途をたどる。 最後には、リアリズムはまったく影をひそめ、極端に装飾化された、細密なデザインが空間をびっしりと埋め尽くそうとする。 シンメトリイと空間恐怖の傾向がはっきりと現れる。 次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていった。 話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていた。 そして30歳のときに発狂した妹と同じように、自分自身も精神病を発病してしまう。 1924年になり彼の言動そして暴力に耐えきれなくなった姉妹によって、ウェインはスプリングフィールド精神病院の貧困者用病棟に収容された。 1年後、人気イラストレーターだったウェインが病院に隔離されていることが一般的に知られるようになると、ハーバート・ジョージ・ウェルズなどの嘆願と当時の首相の介入により、彼の治療環境は改善されるようになった。 ウェインは王立ベスレム病院へと移され、続いて1930年には北ロンドンハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院された。 この病院には患者たちのために心地よい庭が用意されており、そこには数匹の猫が飼育されていた。 ウェインは死去するまでの15年間をこの施設で過ごし、本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していった。 気が向けば以前のように猫の絵に取りかかったが、その作品は原色を多用した色使い、花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されているが、主題そのものは子猫であることに変わりはなかった。 1939年7月4日死去。 ウェインは、ロンドンのケンサール・グリーンにある聖マリアのローマ・カトリック墓地にある彼の父と同じ墓に埋葬された。

次の

ルイス・ウェイン

ルイス ウェイン

ルイス・ウェイン(Louis Wain)は、猫を対象とした作品で知られるイギリスの有名画家です。 日本ではあまり知られていないようですが、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストはとても革新的で、その当時もさることながら現在でも老若男女問わずロンドンを中心に、ヨーロッパじゅうに愛されています。 児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しましたが、晩年には統合失調症、その昔は精神病といわれた病気を患い、79歳で亡くなったときも精神病院にいました。 ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルというところで生まれました。 現在では、ロンドン中心部のトレンディスポットであり、クラーケンウェルはロンドンを代表する食通の街として世界にその名を轟かせている町です。 お腹がすくとロンドンの人々はみんなここのミシュラン星付きレストランに行き、夜は老舗パブ、夜通し営業のバーに寄り五臓六腑を満たして帰るといいます。 つまり生粋のロンドンっ子であり、その洗練された街中で育ったウェインは、学校を抜け出しこの美しいロンドンの街中を歩き回ることが多かったといいます。 6人兄妹の長兄であり、彼以外の5人は皆女の子で、彼女らは皆未婚のまま共に生活し生涯を終えました。 ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られており、ウェインもまたその晩年に同じ病気を罹っていることから、親などからそうした遺伝的な素質を得ていたのでしょう。 子供のころから絵画が好きだったようで、そのため学校もウエスト・ロンドン美術学校を選び、ここを卒業したのちは、短期間教師として働いていました。 このころは一人暮らしをしていた十分に満たされていたようですが、20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなりました。 このため、ルイスは教師の職を辞め、フリーの画家となることにしました。 現在の日本では考えられないことですが、この当時のイギリスでは教師では食っていけず、むしろ画家のほうが身入りが良いという状況だったようです。 ロンドンは、パリには及びませんが、その昔から芸術の都としての側面があり、現在でも大英博物館をはじめとして数多くの美術館があり、その多くが入場料が無料です。 それだけ画家という職業が認められている証拠でしょう。 こうして画家で食べていく決心をしたウェインですが、しかしいきなり描いた絵を売って収入を得るのは難しいため、各種の雑誌社から販売されている雑誌のイラストを描いて報酬を得るようになります。 これらの雑誌の挿絵を描き賃金を受け取っていたウェインは、1880年代を通しての美しい英国の風景や家屋、敷地の詳細な絵などと多数描いていますが、このほかにも家畜の絵などの動物画も多数描いており、ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていたといいます。 こうしてなんとか妹たちを食べさせていたウェインですが、23歳になったとき、ひとつの転機が訪れます。 妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと恋に落ち、結婚することになったのです。 彼女はウェインよりも10歳年長でしがが、これは当時のイギリスではやや問題視されることでした。 これはこの当時明治時代であった日本でも同じであったかもしれませんが、この当時の風習としては姉さん女房というのは一般的ではなく、ジェントルマンは養うべき女性として自分よりも若い年齢の人を選ぶというのが通例でした。 しかし、二人はこうした社会風習に抗って結ばれ、北ロンドンのハムステッドで生活を始めました。 ところが、妻のエミリーはすぐにガンに冒され、二人の結婚生活はわずか3年で終わりを告げます。 この出来事は彼には衝撃であったであろうことは想像に難くありませんが、のちに統合失調症を発症する素因は既にこのころから創られていたかもしれません。 病気を発症し、日々苦しんでいたエミリーは、このころ二人が飼っていたピーターという猫を非常にかわいがっており、少しでも妻の気晴らしになるかと考えたウェインは、このピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせ、これをスケッチしたりしていたといいます。 後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っており、このころからウェインの作品といえば「ネコ」といったふうに画風が変わっていきました。 妻のエミリーが亡くなった年の1886年には、擬人化されたこうした猫を描いた彼の初期の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されており、「猫達のクリスマス」と題されたこの作品には150もの猫が描かれていました。 お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫などなどの姿を描写していますが、この頃彼が描いた猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られません。 しかし、さらに作品が洗練化されてくると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩くようになり、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになっていきました。 この当時の彼の作品には、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞などなどと擬人化されたネコたちのユーモラスな姿が描かれています。 冒頭の写真(絵)もまたそのひとつであり、ネコたちが衣装(寝間着)まとっており、画面いっぱいにネコたち広がって生き生きと描かれています。 ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵(初期のころのもの) このような動物の擬人化は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間にしばしば見られ、この時代の流行でした。 こうしたイラストだけでなく、当時のグリーティング・カードなどにもしばしば用いられ、戯画として人を風刺する際にも多用されました。 こうした作品をウェインは非常に多数この時代に描いており、多作な画家として知られています。 以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られますが、それらの中には100あまりの児童書の挿絵のほか、新聞、専門誌、雑誌に掲載された実に様々なものがあります。 それらの作品においてウェインは、自らの作品もまた流行ではないか、と言われる中で、時代の流行に追いすがろうとする人間社会を、風刺や皮肉をちりばめて描いていました。 その作風はユーモアをもちながら実にシニカルですが、かつ具体性があり、誰もがその描写力の的確さを評価しています。 この当時ウェインは次のように述べています。 「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。 こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ。 」 努力せずしてその画風を身に着けたのか、家族を養い、妻を亡くすという逆境の中で辛酸をなめつつ到達した技法であったのかどうかはわかりませんが、こうした作風は同時代のどんな他の画家とも違った独特なものであり、それだけにまた後世の評価も高いものになっています。 こうした絶頂期のウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加しています。 根っからの動物好きだったとみえ、口のきけない我が友連盟評議会、、猫保護協会、反生体解剖協会などなどに次から次へと加入しており、「全国猫クラブ」においては議長として活躍していいました。 現在の日本でもそうですが、ネコが苦手な「猫嫌い」は当然世の中に存在します。 ウェインはそうした猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていたようで、その作品の中で生き生きと描かれるネコを通じて、人々に愛着を持ってもらおうとしたようです。 こうした活動も評判を呼び、彼が描いたものは次から次へと売れましたが、にも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていました。 元々経済的な感覚に乏しい性格だったらしく、気性は穏やかでだまされやすかったためであり、作品は売れたものの安く買いたたかることも多かったようです。 著作権などの権利関係の交渉についても、取引相手に任せっきりで権利を相手に取られても気にしないようなところがあったようで、こうした割の悪い契約を押し付けられることも常でした。 しかし、次第に内外での評判は更に高くなり、1907年、47歳のときには、ニューヨークへ講演旅行が実現し、この旅行においても彼の作品は高い評価を受けました。 しかしこの旅先でも金銭感覚の欠如が露呈し、後先を見ないで土産物を買いこんだといい、このためにせっかく得た講演料や画代も使い果たし、懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまいました。 この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めるようになり、50を過ぎるころからはこれと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していきました。 周囲の人々から「チャーミングだがちょっと変わった人」と評価されることが多かったウェインですが、だんだんと「かなり変わった人」に変わっていきました。 次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていき、話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていきます。 しまいにはどうみてもおかしな行動が多くなり、言葉を発しても何を言っているのかわからなくなっていきました。 例えば、ウェインはこのころ「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張しており、夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねました。 背景に抽象的な幾何学模様の描かれた作品。 病気の悪化を反映しているとする者が多い 60歳越えるころからは、はたから見てその行為がおかしいだけでなく、ウェイン自身も妄想に苦しむようになっていたようで、やがて優しい兄であった彼は、妹たちに暴力も振るうようになっていき、その性格も疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌していきました。 こうしてウェインが64歳になったとき、彼の言動や暴力に耐えきれなくなった姉妹はついに、彼を入院させることを決めます。 このころ彼の家族は依然貧困から抜け出せないでおり、彼は貧困者向けの病院である、スプリングフィールド精神病院という病院に収容されました。 この病院の中でもさらに最下層の人々が収容される病棟に入っていたといいますが、この有名画家が入院されたという噂は1年もたたないうちに世間に広まりました。 ウェインが病院に隔離されていることが人々に知られるようになると、著名な作家などが彼の「救出」を叫ぶようになります。 小説家で、ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」とも呼ばれたハーバート・ジョージ・ウェルズ(H. ウェルズ)などが中心となって政府への働きかけがなされるようになり、その結果当時の首相の介入により、彼の治療環境が改善されることが決まりました。 ウェインは、この病院の汚い病棟から、より清潔な王立ベスレム病院へと移され、続いて北ロンドン・ハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院されました。 ハートフォードシャは、高級住宅街で知られ、デビッド・ベッカムをはじめ各界の著名人が邸宅を構える土地としも有名です。 この病院も当然最高級のクラスであり、患者たちのために心地よい環境が用意されていました。 この時ウェインはすでに70歳になっていました。 王立ベスレム病院における作品。 この病院の庭には、数匹の猫が飼育されており、ウェインは死去するまでの9年間をこの施設で過ごしました。 その美しい環境とネコとのふれあいの中で、彼は本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していったといい、このころから減っていた画家活動も増えてきました。 以前のように作品数は多くはありませんでしたが、気が向けば以前のように猫の絵に取りかかりました。 しかし、その作品は往年のものとはかなり変わっており、原色を多用した色使い、背景には花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されることが多くなっていました。 彼が病を発症してからこの頃に至るまでの表現法の異なる5つの作品を以下に示しますが、これらは現在でも精神病学の教科書において、統合失調症が悪化するにしたがっての作風の変化として紹介されることが多いといいます。 ただ、これらの作品には、その作成時期がはっきりしないものが含まれているといい、本当に精神の病の進行に適合しているかどうかについては、議論が絶えないようです。 こうしたウェインが晩年に描いた絵が病気の影響を受けたものなのか、彼自身の意図的なものなのかについては結論が出ておらず、精神病の影響などみじんも感じられない芸術作品だと評価する人もいるようです。 ただ、これらの絵が正気で書かれたものなのかそうでないかはともかく、こうした晩年の画風の変化は、最晩年に暮らした病院の明るい環境と、そこにいたネコたちとの交流の中で生まれことだけは間違いはないでしょう。 その真実を自ら公表するすべもなく、1939年、ルイス・ウェインはこの病院で79歳の人生の幕を閉じました。 その最後は穏やかだったと伝えられています。 上述のH・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。 猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。 ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫などは、イギリスの文化とはいえず、恥じてしかるべきである」とまで記しています。 猫好きの人々にすれば、その愛らしい姿を崇高な作品に仕上げてくれるこうした作家がもういないことを悲しむべきでしょう。 が、いずれはまたこの世に生まれ変わって、これとはまた違った画風で我々を楽しませてくれるに違いありません。 その再来を期待しましょう。 投稿ナビゲーション.

次の

ルイス・ウェインの猫

ルイス ウェイン

健康第一、毎日ジョギングを取り入れて気分一新なアルバトロデザイン代表 猪飼です。 仕事柄パソコンに座ってばかりであまりにも体を動かしていない日々が続き、数十メートルすら走ることもできない体になっていました。 コツコツとジョギングをして、今ではようやく1kmぐらい走れるようになった弱小ランナーです。 さて、体を動かさない事でなる病気や、腰痛などの故障も怖いですが、精神の病気もまたいつ襲ってくるものかわかりません。 本日はすこし衝撃的な内容です。 統合失調症と絵における変化という事ばかりで注目されがちなイギリス人イラストレーターのルイス・ウェインですが、彼の作品自体もとても素晴らしいものです。 本日は世界のイラストのあり方を少なからず変えた偉大なイラストレーター、ルイス・ウェイン悲劇の人生についてです。 Louis Wain ルイス・ウェイン (1860年~1939年) ルイス・ウェインはイギリス出身のとっても猫好きなイラストレーターで、擬人化されたかわいらしい猫のイラストが当時のロンドンで大ヒットし、イギリス中で人気を博した売れっ子イラストレーターでした。 ルイス・ウェインの描くネコのイラストはとてもかわいらしく、ルイス自身生涯にわたって猫を飼いつづけていました。 ルイス・ウェインは自分の飼い猫のピーターに対し、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」とすら語っています。 大好きな猫のイラストで大ヒットし、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストは当時とても革新的で、老若男女問わずロンドンを中心にイギリス、ヨーロッパじゅうに愛されました。 ルイス・ウェインは児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しました。 また、動物愛護(主に猫)のチャリティーにも積極的に参加し、当時まだ酷い扱いを受けていた猫や犬など、ペットへの軽蔑感払拭の為にも無償で作品を作り続けました。 ルイス・ウェインの描く猫には、彼の愛が詰まっていました。 しかし、華々しく見える売れっ子イラストレーターであったルイス・ウェインの人生は、実はとても酷なものでした。 それは正に、悲劇の連続の人生でした。 ルイス・ウェインの波乱万丈な人生 1860年 ルイス・ウェイン誕生 ルイス・ウェインはイギリスのロンドンに誕生しました。 ウェイン家にはルイス以外に5人の妹がいましたが、妹の1人は若い頃から精神病と戦っていました。 ルイス・ウェイン以外の5人の妹は全員生涯結婚することは無かったそうです。 1880年(ルイス20代) 父の死とイラストレーターとしてのデビュー 絵がうまかったルイス・ウェインは美術大学を卒業しますが、父親が死去してしまい、生活費を稼ぐために職探しをします。 ルイス・ウェインの緻密な絵は当時の雑誌に評判となり、動物や風景画を中心とした絵を描いてウェイン一家の生計を立てます。 1883年 (ルイス23歳) エイミーと結婚、妻の死 やがて、ルイス・ウェインは妹の家庭教師エミリーと結婚します。 実家を離れ、二人で生活しますがエイミーは癌に冒され、結婚3年後に病死してしまいます。 妻の残した猫、ピーターこそがルイス・ウェインと猫のコンビの誕生でした。 1886年 (ルイス26歳) ルイス・ウェイン全盛期 妻エイミーの死後もルイス・ウェインはピーターをモデルに猫を描き続けました。 そして、ただの猫を描き飽き、ただの猫では仕事の幅も感じたルイスは、猫を擬人化して描きました。 これが大ヒットとなり、ルイス・ウェインはイラストレーターとして一躍有名になります。 雑誌だけでなく児童書、新聞と幅を広げ、かわいらしい猫の絵はロンドンじゅうの人々の心を掴みました。 1907年 (ルイス37歳) 経済難、そして精神病との戦い 人がよく、職人気質だったルイス・ウェインはどんな仕事も安価で受けました。 5人の妹達の生活費を稼ぐため、常に働き詰めで、自分の作品作り以外は気にしていなかったのが問題でした。 ルイス・ウェインのイラスト人気はアメリカまで届き、人気は不動のものでしたが自らイラストの価格を引き上げなかったルイスは、ひたすら忙しくなるだけで常に経済難にありました。 取引相手にだまされる事も多く、ルイスには辛い日々が続きました。 そんな中、ルイスの精神も不安定になってきてしまいます。 穏やかでやさしかったルイスの性格は一転し、疑心暗鬼で妄想に苦しむようになります。 ルイス・ウェインと統合失調症 妹の1人と同じ精神病になってしまったルイス・ウェインの面倒は、他の妹達が看ました。 しかし日々暴力的になり、重度の精神病になってしまったルイスを妹達は病院へと入院させました。 お金の無い妹達がルイスを送った精神病院は劣悪な環境でしたが、やがて作家のHGウェルズを中心とした当時の友人たちに支えられ、キレイで庭があり、なによりも猫のいる病院へと移されました。 1939年、ルイス・ウェインはこの病院で人生の幕を閉じましたが、病院の猫に囲まれて後期は穏やかな性格を取り戻しつつあったといいます。 ルイス・ウェインは20年近くに及んだ闘病期にも、日課であるイラストを描く事は止めませんでした。 ルイスの描いたイラストの変化は、しばしば統合失調症の患者の気持ちを探るために引用されます。 ルイスが後期に描いた絵は、それは病気の為なのか、彼自身の精神の為なのか、または意図的なものなのかは未だに分かってはいません。 しかし、病気がルイスの心を変化させ、その影響が作品に現れたというのは事実です。 そもそも統合失調症という病気は、昔は精神分裂症と呼ばれ、現在でも解明されていない事の多い病気でもあります。 遺伝での発症も多い反面、後天的な理由での発病も同じぐらい多いとされています。 病状も様々で、精神のどの部分がどう変わるかは人によります。 同じ統合失調症で絵描きである高村智恵子は、闘病中も穏やかな作品を残しているし、逆に統合失調症で独自の世界観を作り上げた芸術家やミュージシャンも存在します。 ルイス・ウェインまとめ 母親、妹達の為に騙されてもひたすら働き続けたイラストレーター、ルイス・ウェインの末路は彼の後期の絵からみるととても衝撃的で、穏やかだった頃の彼の絵と闘病時の攻撃的な絵が実に対照的です。 観ていて胸が締め付けられるような気すらします。 しかし、ルイスの絵は病気時との「変化」だけで語られるべきものではありません。 彼の愛した妻との思い出、そしてその妻が愛した猫への思い、こうした悲しくもポジティブで繊細な思いがルイス・ウェインのイラストからは感じられます。 そして、それこそがルイスの絵をイギリス中の人が愛した魅力の根源でもあります。 ルイス・ウェインの絵は今見てもとてもかわいらしく、素敵です。 では、病気時の絵と比較されるのがよくないことなのでしょうか? それは、また違うと思います。 彼の絵はどの時期描いても、ルイス・ウェインの絵であり、画家の使命はどんな感情であれ、人を感動させることです。 どんな怖い絵でも、楽しい絵でも、人の心を動かすことこそが絵を描く「意味」だと思います。 ルイス・ウェインはだからこそ、闘病中も絵を描き続けたのだと思います。 表現したものは変わっても、彼は生涯画家でした。 人が変化するように作品も変化をするものです。 人の人生そのものが作品であり、彼の人生はとても幅の広い作品だったと言えます。 できれば彼の「変化」を気持ち悪いと思うのだけでなく、変化をきっかけに、ルイス・ウェインの前期、中期、後期「そのもの全て」が評価される事を願います。 Louis Wain 始めまして、最近アメブロを、始めました「エイケン」と申します。 ブログで家族の鬱病から栄養療法でいかに回復して行ったかをかいております。 先日英国の犬が200万匹もうつ病になっているとの生地がでておりましたので 其の、真偽を探る為探しておりましたところ、猪狩さんのッブログにであったわけです。 そこで素晴らしい記事なので、私のブログでも是非紹介させて頂きたく コメントしました。 どうか宜しくお願いします。 うつ病が、人間だけでなくペットにも、拡がりつつあるということは、糖質の 摂取の可能性からみて、容易に想像がつく事と、認識しております。 ルイス・ウエインの半生が、とても残念です。 あと100年早くホッファー博士や、ポーリング博士と、出会っていれば、20年の闘病生活はなく、もっと、もっと、より素晴らしい作品が残せたのでは、ないでしょうか。 これからも、より良い記事を書くために、訪問させて頂きます。

次の