止利仏師 鞍作鳥。 鞍作止利

鞍作止利の伝説(飛騨)と法隆寺

止利仏師 鞍作鳥

人物 [編集 ] 飛鳥時代を代表する仏師である。 13年()はのを始め諸王・諸臣に対して、ともにを立てること、一丈六尺のとを各1体ずつ制作を始めることを命じたが、その際に止利は造仏の工(担当者)に任ぜられた。 翌推古天皇14年()は完成したものの、金銅仏の高さが元興寺()の金堂の戸より高く、戸を破壊しないと堂内に入れられない問題が発生したが、止利の工夫により無事に金堂に安置した。 この功績により止利は大仁のに叙せられるとともに、坂田に水田20町を与えられたという。 のに篤い一族であり、父の多須奈はのために坂田寺の建立を発願し、のちにして、日本で最初のである徳斉法師となったと伝えられる。 と深いつながりがあったと見られ、により蘇我氏が失脚するとともに止利様式の作品も見られなくなった。 作品 [編集 ] 金堂本尊銅造()が代表作。 安居院()本尊の()も止利作とされているが、後世の補修が甚だしく、当初の部分は頭部の上半分、左耳、左手の指の一部のみとされていた。 しかし、7月にの大橋一章らの研究チームが詳しく調査を行った結果、現存像の大部分は造立当初のものである可能性が高いとの結論を得ている。 その他、法隆寺等には「止利様式」と呼ばれる同系統の仏像が現存する。 中国の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、古式の微笑()などに止利および止利式の仏像の特色がある。 また、止利式の金銅仏の特徴として、銅の厚みが薄く均一に仕上がっており、鋳造の際に中型の固定に使う鉄心を取り去っているなど、他の金銅仏に比べて卓越した技法が見られる。 系譜 [編集 ]• 父:鞍部多須奈• 母:不詳• 妻:不詳• 男子:• 男子:鞍作人足• 男子:鞍作真枝 脚注 [編集 ].

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止利仏師(とりぶっし)とは

止利仏師 鞍作鳥

飛鳥寺 飛鳥寺(アクセス・見どころ・拝観料金・ご朱印・・・)情報を紹介しています。 飛鳥寺の飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)は日本書紀によると606年(推古天皇14年)、元興寺縁起によると609年(推古天皇17年)に完成したとされ、日本最古の仏像とも言われています。 ちなみに飛鳥大仏は鞍作鳥(止利仏師)作とされています。 【飛鳥寺 アクセス・地図】 場所・・・奈良県高市郡明日香村飛鳥682 最寄り駅・バス停・・・飛鳥大仏(徒歩約3分) アクセス路線は次の通りです。 当初飛鳥寺は法興寺(ほうこうじ)と言われたそうです。 ただ創建年は明確ではなく、馬子の甥で、第32代・崇峻天皇が即位した588年(崇峻天皇元年)とも、日本書紀によると596年(推古天皇4年)とも言われています。 ちなみに馬子は排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と対立した際、勝利を祈念し、寺院の建立を誓願したとも言われています。 その後大化の改新によって蘇我氏宗本家は滅亡したが、飛鳥寺は大官大寺・川原寺・薬師寺とともに四大寺として、朝廷の庇護を受けました。 710年(和銅3年)の平城京遷都後、飛鳥寺は718年(養老2年)に平城京に移され、名称も飛鳥寺(法興寺)から元興寺(がんごうじ)に改められ、残された飛鳥寺は本元興寺と称しました。 1196年(建久7年)の雷火によって伽藍が焼失して衰退し、1447年(文安4年)には本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は雨露に曝される露坐で、江戸時代には仮堂一宇のみだったと言われるが、1825年(文政8年)に大坂の篤志家の援助により、本堂が再建されました。 飛鳥寺は真言宗豊山派の寺院です。 ただ1973年(昭和48年)に行われた奈良国立文化財研究所の調査によると造仏当初の部分は頭部の額から下・鼻から上の部分と右手の第2指から第4指のみだと分かったそうです。 なお飛鳥大仏は像高約275. 2センチです。 重要文化財・・・銅造釈迦如来坐像 【飛鳥寺 連絡先(要確認)】 電話番号・・・0744-54-2126 【飛鳥寺 おすすめ散策ルート】 飛鳥寺近くの岡寺(おかでら)・飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)・石舞台古墳(いしぶたいこふん)などを散策するのがおすすめです。 【飛鳥寺 備考(駐車場・御朱印・リンク・・・)】 駐車場あり。

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鞍作止利(止利仏師)

止利仏師 鞍作鳥

高山市公式観光サイト 飛騨には鞍作止利の生誕の地であるという伝承があるそうです。 鞍作止利といえば法隆寺の釈迦三尊像を作ったとされている人物で、銘に刻まれているということです。 鞍作止利 くらつくりのとり) 飛鳥時代の仏師。 司馬達等 しばたつと の孫といわれる。 飛鳥寺の丈六仏(飛鳥大仏)や法隆寺金堂の釈迦 しゃか 三尊像の作者。 日本最初の本格的な仏師で、中国の北魏 ほくぎ 様式の流れをくみながら、いっそう洗練された作風は、止利様式とよばれる。 止利仏師。 生没年未詳。 () 当時、飛鳥の諸寺の建立などにも関わり、蘇我氏や聖徳太子とも深いつながりがある。 法隆寺の建立などのも深く関わっているであろう人物に飛騨の山中に生まれたという伝承があるそうです。 (こちらを参考にさせていただきました。 ) 鞍作止利はずっと帰化人(大陸から渡来してきた人)だと思っていましたが、こちらを読ませていただくとなんだかやっぱりこちらのほうが正しいのかなという気になってきます。 というか、祖父が日本に来ていたので日本生まれということなのでしょうね・・・ 伝説が紹介されていて、それだけ伝承があるので、鞍作止利が飛騨の山中に生まれたというのもあながち間違ってはいないのかもしれません。 けっこう夢中でこちらのブログ読ませていただいたのですが、けっこう長いのでどこを抜粋すればいいのか迷いました。 (一部です) 「 忍が満月の夜に川面に映った 月を掬って飲みほすと身重になり、生まれた子供は首が鳥に似ているところから鳥と名づけられた という伝説である。 これを裏付けるかのように和漢三才図会(江戸時代正徳2年成立の図入り辞典)に、 止利仏師は司馬達等の孫であるが、飛騨国鞍作の手為名の子である。 天生に来て神女と結ばれ子が生まれた。 これが飛騨工となり、と載っている。 更に、それにまつわる伝承も幾つかある。 いずれにしてもそれらを実証するものは残っていないが、 飛騨の山村に長い間伝えられてきたのには、やはりそれなりのことがあってのことと思う。 また、止利仏師生誕伝説があるのは、全国でもここだけという。 」 の中で匠学会が発行した「新飛騨の匠物語」という本に載っていたと紹介されています。 鞍作止利が慣れ親しんだ飛騨から雲形組物を持って行ったのなら、最初から死の国と関係なく作ったのかもしれないし。 死の国のイメージで作ったものを持ち帰るという行為をするだろうかというのは、はなはだ疑問に感じました。 自分のところに死の国を作ったり持ち帰ったりということは一般的な考え方で言うと、誰もしたがらないように思います。 やっぱり鞍作止利と飛騨の関係性によってもいくぶん事情も変わってくるように思います。 昔のことすぎて真実はやっぱり闇の中と言えそうな気がします。 わからないからかえって想像もできたりするので、面白いのかなとも思うのですが・・・.

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