テアトル 郡山。 郡山テアトル|上映時間・スケジュール

映画館情報

テアトル 郡山

戦後間もない頃は、庶民の娯楽と言えば「映画」だった。 戦後復興のシンボルとして、美しい女優さんや上原謙や赤木圭一郎、石原裕次郎、そして美空ひばりなどの銀幕のスターに憧れ、あるいは恋い焦がれて活気を取り戻したのは言うまでもない。 かつて、プロ野球の球団のオーナーが映画会社だったことを考えれば、その隆盛ぶりは窺い知ることが出来るだろう。 我が街、郡山もまたその例に漏れず、相当スクリーン映画が持て囃されていたようだ。 それが証拠に、昭和の時代には数多くの映画館が存在した。 その数、常時20劇場以上が点在していた。 ではここから先は、「おはようドミンゴ」さんの「」のブログからから引用および抜粋させていただき、その後、自分なりのコメントを添えたい。 🎥 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・🎥 郡山には最古の 清水座や、明治32年創立の 共楽座という館があったほか、 平和館と 富士館が大正9年に開館、 大正座などがあり、共楽座が大正6年に みどり座と改名したほか、昭和6年になってみどり座の隣に 郡山会館(火事で焼失したため昭和16年 郡山映画劇場となる)が出来、 新興館も産まれたがこれは昭和20年に強制疎開で壊された。 隣接の町には 大槻共楽座、大正5年開館の 熱海座、 日和田座(のち 日之出座)や、戦後の 永盛映画劇場(無許可のバラック館で雨漏りした)などが最盛期に活躍していた。 郡山の大正座は明治44年生まれで 郡盛舘、 文芸館、 大勝館と名を変えて生き延びた。 ほかに名前を拾ってゆくと戦後は 日劇、 テアトル、 郡山ニュー東宝、 ピカデリーなどや、 P. シスター、 地下シスター松竹、 ニュース館、 駅前東映、 ピッコロ座、 ロマンス座、 セントラル、 駅前東宝、 駅前ロマン、 駅前スカラなどがあったが、今日ではすべて アートパレスとテアトルの二系列シネマコンプレックス館に統合。 戦後、郡山駅前には 中劇、 清水座、 富士館の三館があるだけで、堂前には 郡映のみだった。 ファンの要望で、みどり座が映画館に再生した経緯がる。 後にはテアトル(東宝)、駅前東映、日活、郡山日本劇場(日劇)、郡山東映パラス、大勝館、シスター、郡山東洋劇場など10館が繚乱の営業を展開する。 昭和26年3月15日の民報記事中に県内の映画館経営者の紹介もあり、特に郡山の佐藤勝治氏の経歴がある。 佐藤氏は郡山みどり座が芝居小屋だったのを昭和8年から映画に手を染め12年に郡映の前身郡山会館を新築。 白河みどり座、郡山新興館を買収。 火災の厄に遭った郡山会館の跡に郡山映画劇場を新築。 戦後はみどり座を改装して洋画専門館に、ついでピッコロ座を創設、ロマンス座を新築し宿願の中央劇場を建設。 県下の業界をリードした。 ロマンス座は昭和25年8月1日に米欧特選番組で開館。 昭和27年時点の映画年鑑は次の館を記載している。 みどり座 エミネツクス 小野研 800 大 堤下12 佐藤勝治 小原磯助 ロマンス座 ニッセイ ローラー 230 洋混 同 佐藤勝治民井一弥 郡山映画劇場 エネミックス 小野研 600 松洋混 同 佐藤勝治 後藤武四郎 富士館 エネミックス エネミックス600 宝映 柳町95 東和興行 斎藤二一 中央劇場 ローヤルL型 ローヤル 1200 混 清水台 佐藤勝治 菅野恭雄(鉄筋) 清水座 ローヤルL型 KKK式 408 新・洋混 柳内198 伊藤祐治 柏木正治 昭和27年11月28日民報「東北随一の文化センター中央劇場本日落成開館」(郡山市佐藤興行社)広告。 〔郡山駅前には中劇・清水座・冨士館の三館があるのに比べ、市内堂前方部には現在郡映が一館あるだけで同方部のファンからみどり座を映画館として再開してくれという声が強いので去る七月末佐藤興行社が場内の改装工事を急いで〕二番館としてオープンした。 昭和31年には福島テアトルの姉妹館として「郡山テアトル」が8月12日開館した。 県都の映画館誕生ラッシュに歩調を合わせて郡山での映画館競争も熱い火花をちらしていたが、明治44年に開館した大正座は改装して映画専用上映館にしようとしたが、地主からクレームが出て建築工事がストツプした(昭和31年10月15日民報)という。 シネマスコープ「愛欲と戦場」「豪族の砦」の洋画を大人80円・学生70円・小人50円で特別上映した(民友12月11日)。 合名会社清水座代表社員柏木正治と東和興業株式会社斎藤信雄の連名で開館挨拶が民友12月17日号に掲載されている。 昭和33年9月4日民報〔市民会館の映写設備にケチ。 客が減ってしまう。 人口一万に八館が赤字。 須賀川四館に二館、白河三館に二館が赤字〕郡山十一館だという。 昭和36年4月24日民報〔ニュー東映誕生 ニュー東映上映劇場〕の記事に〔郡山松竹改 め郡山ニュー東宝〕とある。 昭和36年10月下旬号のキネ旬に、郡山東映富士館の消息が載っている。 〔去る七月八月(日)に閉館した、郡山市柳町九五の「郡山東映富士館」(経営者斎藤信雄氏)は、経営者を大野冨蔵氏に変更して、九月二六日に再開した。 支配人は荒川義昭氏。 〕また同年10月、「ニュー東映直営劇場転向」というニュースで「キネ旬」は、〔郡山ニュー東映(東映地方封切館)十二月四週から〕と報じている。 郡山の映画館群を昭和38年の時点で眺望すると、テアトル郡山(東宝系)、郡山映画劇場(松竹系)、駅前東映(東映系)、郡山日活劇場(日活系)・大映清水座(大映系)・日本劇場(東和系)、大勝館(東和系)、P. 直営P. シスター、冨士館(東映系)、ロマンス座(日活系)など10館の名を運ねている。 同劇場は昭和16年、郡山市内では最初の映画館として建設された。 建坪五百平方メートル、木造モルタル二階建てで床は総タイル張り、収容人員四百人。 当時としてはモダンな作りで市民の話題をさらったという。 あまりに立派なのでお客さんが入口でげたやぞうりをぬいで入って来たというエピソードがあるほど。 昭和26年まで松竹映画を中心に上映「愛染かつら」「君の名は」など一世を風びした名作の時は何度も満員御礼の貼り紙を出したという。 また郡山市で最初に洋画を上映した(昭和26年)のも同劇場。 戦前、戦後を通じ経営者が何度か代わったが、昭和31年、東北第一興業の安達政雄社長(郡山駅前シネマビル経営者)が経営を引き受けた。 市内の高校ではかつて高校生同士が映画館に入ることを禁止したことがあるが、郡映だけは許可したという。 52年正月、同劇場で上映した「岸壁の母」が爆発的な人気を呼び、40日間で35000人のお客が入つた。 お客が入り過ぎたのが原因で劇場二階のハリが折れた。 業者に修理を頼んだところ老朽化がひどいため周りの柱まで取り替えねばならず数千万円もの修理費がかかると言われたという。 市内にあつた「みどり座」「清水座」「富士館」と往年の劇場が次々と姿を消し、安達社長は「郡映だけは残したい」と考えていたが、ハリが折れたのを機に廃止を決意。 「岸壁の母」を最後に廃館とした。 同社の従業員全員が同劇場で酒をくみ交わし廃館式を行い、思い出の劇場に別れを告げた。 なお、郡映と一緒に隣のロマンス座も廃館となった。 東北第一興業では52年11月、映画離れ対策として懸賞付き映画鑑賞を東宝、スカラ、ロマン、テアトル、ピカデリーの館で実施。 7歳から映画界に入り下足番、売店の売り子などから支配人を経て念願の独立を果たした人物。 日活が直営館を探しはじめたのがきっかけとなって男子の後継者いなかったことから、53年7月いっぱいで閉館。 経営権は日活に譲渡され、寅さんシリーズの上映などはシネマビルで上映を引き継いだ。 シネマビルは郡山市内の映画館の半分にあたるテアトル郡山、郡山ピカデリー、郡山映画劇場、郡山ロマンス座の四館を経営する東北第一興業社長安達政雄さん(40)が総工費一億一千万円をかけて建設したもので、鉄筋三階建て延べ七百五十平方メートル、百三十席から百八十席の映画館が三館出来た。 一階が邦画専門館の「駅前東宝」二階が西部劇、ギャング、戦争物の洋画アクション専門の「駅前スカラ座」三階が洋画の異色作を上映する「駅前ロマン」となっている。 同ビルの特長は東北地方では初めてという自動映写装置を導入、三館を一人の映写技師が坦当しているほか、三館内に十三台のモニターテレビを設置しコントロール・センターで集中的に監視するなどで、人件費節約の関係で大幅な機械化を導入している。 オープン初日は土曜日とあって朝から多くの人が訪れ、日中だけで二千人を超す観客が詰めかけた。 なおシネマビルの誕生は県内ではいわき市に次いで二番目。 昭和63年 1988 の郡山の映画館は次のとおり。 12館あった。 郡山東映、パレス郡山、にっかつ劇場、郡山スカラ座、郡山東宝、郡山ロマン、郡山駅前パレス、郡山パレス1、テアトル郡山、郡山大勝館、郡山洋画パレス、郡山洋画ピカデリー このうち翌年1989年(平成元年)11月26日には、ピカデリーが廃館となり11館に減少。 同年12月1目の映画年鑑90年版では「ロッポニカ郡山」が載って12館に。 91年から93年にかけては10館体制で94年の年鑑ではさらに郡山パレス2が欠落して9館に。 田村郡守山町にあった旧陸軍が木工場として使用していたものを終戦と同時に財務局福島支部が管理し、24年暮に永盛町の横堀捨松さんが五万円で払い下げを受け、さらに同町の三本松寺市さんが借り受けて月に二度ほど映画館として上映。 百坪ほどの大きさで土間に筵を敷いて百席ほどの客席だったが、屋根の木端板がひどくいたんで雨が洩るため映画を中断した。 所在地から樋の口劇場とも呼ばれた。 樋の口映画劇場の名が新聞に出ている。 昭和44年の全国映画館名簿に安積郡唯一の館として記載されている。 福良会館 邦洋 阿部義一 ホープ・三共 280席。 🎥 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・🎥 さて、当時の庶民がこんなにも映画に傾倒していたのかと驚きを隠せない。 郡山市内だけでざっと20以上もの映画館がひしめき合っていた。 確かに私の記憶では、駅前のアーケード周辺だけでも5つはあった。 富士館ビル内にあった郡山東宝は、ゴジラやガメラなどを上映していて、小学生に大人気だったし、駅西口の真正面にあった「大映パレス」やアーケード南側入口横にあった「松竹」などでは、私が映画を見た記憶がある。 ほかにもポルノ映画の殿堂だった「大勝館」 2009年11月閉館)もあった。 看板がエロすぎて、小中学生の頃は目のやり場に困った。 中1の頃、そこで「スターウォーズ」の初回作品を見て、あの大音響とCGを駆使した特殊映像技術に圧倒された想い出がある。 超満員で立ち見していた記憶がある。 また、堂前にはほっ立て小屋風の郡山映画劇場(郡映)があり、小6の頃、同級生たちと「キングコング」を見た記憶がある。 駅前の「大映」では「ハイティーンブギ」「嵐を呼ぶ男」を見たし、20代には彼女と「波の数だけ抱きしめて」を観に行った。 私にとっても映画は幼少の頃から身近な存在だった。 他にも駅前には「東映パレス」「スカラ座」「パレス1・2」などがあったし、堤下には「アートパレス」があった。 残念ながら、テレビが普及し始めた昭和40年代頃から、映画業界は衰退の一途をたどった。 現在、郡山で生き残っている映画館は、市内駅前にあるテアトルくらいで、一人勝ちの様相を呈している。 さて、郡山市在住の方は、かつて昭和の時代に、このような数多くの映画館が存在していたことを知る方は、還暦以上の先輩諸氏になっていると思う。 少しでも昔のことを懐かしく思い出していただけたら幸いです。

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上映作品

テアトル 郡山

平素はテアトルシネマグループをご愛顧いただきありがとうございます。 テアトルシネマグループ映画館にて「株主ご優待綴」をご利用いただく上でのご注意をご案内いたします。 綴のままご使用ください。 表紙が無いと映画ご招待券はご使用いただけませんのでご注意ください。 映画館のチケット窓口にて2日前より、鑑賞日のご希望の上映回の指定席券と引き換えができます。 窓口で指定席券に引き換える時点で有効な映画ご招待券又は提示割引証が必要となります。 (例:11月1日の指定席券を10月31日に窓口で引き換える場合は、10月有効の映画ご招待券が必要となります。 11月有効の映画ご招待券はご利用いただけません。 何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。 株主優待をご利用いただける上映・いただけない上映• C 2019 Gullane Thomas Limited. C 2019 HIT Entertainment Limited. (C)2019「縁側ラヴァーズ2」製作委員会• C 2014-2018 Culture-ville, LLC• All Rights Reserved. All Rights Reserved. ,LTD. C 2014-2018 Culture-ville, LLC• C EL CAMINO LLC. ALL RIGHTS RESERVED. C ネツゲン• All Rights Reserved. All Rights Reserved. ,LTD. ,GREEN RAY FILMS SHANGHAI CO. ,LTD. C Fabula, Santiago de Chile, 2019• (C)HYPE FILM, 2018• Filmproduktion• Ltd. C 2020「のぼる小寺さん」製作委員会• C 珈琲/講談社• All rights reserved. All Rights Reserved. ALL RIGHTS RESERVED. All Rights Reserved. All Rights Reserved. ALL RIGHTS RESERVED. C 2019 Motown Film Limited. All Rights Reserved• ,LTD. ,GREEN RAY FILMS SHANGHAI CO. ,LTD. C Fabula, Santiago de Chile, 2019• c 2020 Warner Bros. Ent. in association with Eden Entertainment Inc. C 2018 DEFINITION DELAWARE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. in association with Eden Entertainment Inc. All Rights Reserved. (C)西森博之/小学館• (C)2020「今日から俺は!! 劇場版」製作委員会• ALL RIGHTS RESERVED. Ltd. All Rights Reserved. C 2019 Gullane Thomas Limited. C 2019 HIT Entertainment Limited. C 2020 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved• All Rights Reserved. C 2020 HOKUSAI MOVIE• (C)HYPE FILM, 2018• All Rights Reserved. C EL CAMINO LLC. ALL RIGHTS RESERVED. Ltd. ESTEBAN CORP S. DE C. c 2018 epo-film, Glory Film• C 2020「SHUKATSU 4」面接委員会• All rights reserved. All Rights Reserved. All Rights Reserved. All Rights Reserved. ALL RIGHTS RESERVED. c 1998 MEDUSA• All Rights Reserved. c 1998 MEDUSA• Photo by Bruce Steinberg, Courtesy of linkwray. com• C 1960-2019 The Bert Stern Trust All Rights Reserved. All Rights Reserved. C 2019 Motown Film Limited. All Rights Reserved• c 2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved• ,LTD. ,GREEN RAY FILMS SHANGHAI CO. ,LTD. in association with Eden Entertainment Inc. and United Smiles Co. , Ltd. All Rights Reserved• in association with Eden Entertainment Inc. All Rights Reserved. (C)TABITOFILMS・マガジンハウス• (C)HYPE FILM, 2018• ESTEBAN CORP S. DE C. C 2019 SND, tous droits reserves• c 2018 epo-film, Glory Film• All Rights Reserved. All rights reserved. All Rights Reserved. All Rights Reserved. All Rights Reserved. ALL RIGHTS RESERVED. C 2018 OFFICIAL SECRETS HOLDINGS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. All Rights Reserved. C 2019 Motown Film Limited. All Rights Reserved• All Rights Reserved. C 1960-2019 The Bert Stern Trust All Rights Reserved. ,LTD. ,GREEN RAY FILMS SHANGHAI CO. ,LTD. c 2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved• C 2019 WARNER MUSIC UK LIMITED• All Rights Reserved.

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郡山の昔話(映画館とデパート編): 時遊人SUZUのひとり言

テアトル 郡山

郡山に住んで半世紀近くが過ぎた。 学区が芳山・二中という郡山の中心市街地に住み、町並みの移ろいや変わりようを間近で見てきた私だ。 小学生の頃、郡山駅前や中町・大町周辺を遊び場にしていた私にとって、昔のことを話すのは実に容易いことだ。 大学時代の4年間と初任の勤務先だった4年間のみ、郡山を離れたが、実家は市内中心部にあったため、私の中では半世紀以上、郡山にいたようなものだ。 それくらい愛着を持っている。 これまで何度も同じ類の記事を書いて来たが、今回も「郡山の昔話」をしたいと思う。 本日のテーマは、「今は無き映画館」と、移り変わりが激しい「デパート」について語りたい。 「今は無き映画館」 昭和30年代頃から庶民の娯楽と言えば「映画」だった。 テレビは一般家庭に普及しておらず、専ら映画館に足しげく通い、上原健や赤木圭一郎、石原裕次郎、加山雄三などの二枚目スター、女優でも美空ひばり、原節子、岡田嘉子、吉永早百合などの絶世の美女スターが銀幕を彩った。 日活、東映、大映、東宝、松竹など多くの映画会社があったことでも時代背景を窺い知れるだろう。 当時は映画館が庶民のよりどころであった。 「喜びも悲しみも幾歳月」や「青い山脈」、森繁久弥の「社長シリーズ」「若大将シリーズ」、裕次郎の日活シリーズなどはドル箱だった。 私は志村喬主演の「生きる」が好きだった。 小津安二郎や今村昌平、黒澤明、山田洋次、市川崑、鈴木清順などの名監督の作品が大ヒットした。 私が生まれた1964年は「東京オリンピック」が行われ、インフラ整備によって好景気に沸いていた。 その後の高度経済成長と池田勇人首相の「所得倍増計画」によって世相的に勢いがあった。 テレビが普及し、映画業界が廃れるという皮肉的な結果に終わったが、私が幼少の頃は、その名残で駅前を中心に多くの映画館が存在した。 1 「東宝富士館」 現在のアーケード内の富士館ビルにあった。 郡山で一番大きかったと記憶している。 隣りが「ワタナベスポーツ」(天井裏が倉庫で、ハシゴで商品を取り出す珍しい作り)で、そのまた隣りが郡山初の回転寿司の「元禄寿司」があった。 店内は薄暗く、細長い形状で、カウンター席が周囲にあるこじんまりとした作りだった。 私は「東宝」では親に連れられ、「怪獣シリーズ」を何度も見に行った。 ゴジラ、モスラ、ガメラなどのシリーズ映画だ。 2 「郡山東映」 略して「郡映」。 確か堂前、今の文化センターの北側あたりにあった。 ほったて小屋のような小劇場だった。 入口が資材置き場みたいな造りで、オンボロ屋敷に入っていくような印象だった。 そこで小6の頃に、友達4~5人で「キングコング」を見に行った記憶がある。 もちろんカラー映像になってからの作品だ。 そしてその帰り道、中華料理屋の「なるき」でタンメンを食うのが定石だった。 アーケード入口の北側あたりにあったと思うのだが、もしかすると記憶違いで、松竹があった現在吉野屋がある一帯のビルだったかもしれない。 私は浪人時代、予備校をさぼって見に行ったのがミーハー極まりないが、当時流行った東宝の「たのきん映画」で、近藤真彦主演の「ハイティーンブギ」と「嵐を呼ぶ男」の二本立てだった。 当時、マッチに似ていると言われ、有頂天になっていた私は、高校生に爆発的人気のあったその青春映画を見ておきたかった。 リバイバル上映で、しかも平日の昼間だったので、客は3~4人しかいなかったと思う。 湘南を舞台に、大学生たちがひと夏、ミニFM曲を開局するという設定で、その中で叶わぬ恋を演出した。 中山美穂、織田裕二、松下由樹、別所哲也らが出演した映画だった。 その東向いが中学の同級生の肉屋だった。 斜め向いには成人映画の殿堂の「大勝館」があった。 今は、「テアトル5」になっているため、同じ映画館だけに昔の面影が若干残っている。 割烹居酒屋「くし膳」の姉妹店である「まめ膳」がの隣りにある。 残念ながら、私はここでは映画を見た記憶がない。 5 「郡山ピカデリー」 郡山のさくら通り沿いの清水台。 4号国道の西側に八幡坂があるが、安積国造神社まで登る手前にあった映画館。 ちょっとわかりづらい場所にあり、階段で降りた地下にあった。 映画館自体狭く、200席もなかったと思う。 私はここで中1の頃、初公開となった「STAR WARS」の初回作品(現在はエピソード4)を見た。 しかし、大人気作品だったため、立ち見で見た。 その優れた映像技術は既知のものではなく、CG技術や大音量に圧倒された覚えがある。 新しい映画制作の到来を肌で感じ取ったのは言うまでもない。 その北西隣りにあったのが「大映パレス」で、1階映画館、2階がサウナパレスになっていた。 大勝館の北東側で、その角地(つまり大映パレスの南隣り)には精養軒という肉屋さんがあった。 なお、「テアトル郡山」は「でこ屋敷」という居酒屋さんがある角をさらに北へ70~80mほど行った、今の「ワタナベスポーツ」の辺りにあった。 中央スケートリンクがあったその斜め向かい側だ。 詳しい地図は下をどうぞ!(クリックで拡大します) このように昭和30~40年代は映画が隆盛し、それらを見るために人々は大挙して駅前に繰り出し、映画鑑賞の後で百貨店に立ち寄り買い物をしていた。 だから駅前が賑やかで、消費活動も活発だった。 駅前には多くの書店があった。 東北書店・佐藤書店・叶屋書店・松文堂などだ。 よく立ち読みして怒られたものだ。 古き佳き時代だったとつくづく思う。 ちなみに「松竹」は駅前のアーケード入口から左側の吉野屋があるビル一帯にあったと思う。 「デパート(百貨店)」 郡山の老舗百貨店と言えば、私が幼少の頃は3店しかなかった。 アニメCMが一世を風靡した「うすい百貨店」、仙台が本店の「丸光」、そして呉服屋のイメージが強かった「津野デパート」だ。 まず、「うすい」は中町の商店街通りを挟んで「第一うすい」と「第二うすい」に分かれていた。 「第二うすい」ではエレベーターが珍しい時代で、何度も乗って上下を繰り返した。 制服を纏ったエレベーターガールもいた時代だ。 私はここへは切手購入で訪れたものだ。 そして親と買い物に訪れた際に、7階のレストランで「お子様ランチ」を食べるのが何よりの楽しみだった。 また最上階が狭い空間だったが、ちょっとした遊具やゲーム機がおいてあって、そこで小銭を握り締めて遊んだ記憶がある。 一度も見たことはなかったが、銀色の円形の構造物があった。 もしかするとあれは天体望遠鏡を囲うドームだったと思う。 また、「うすい」の特設会場は、時々奇妙な展示を開催した。 もっとも薄気味悪かったのは「世界の爬虫類展」だった。 世界中から珍しい蛇やトカゲ、ワニなどを一堂に集め、展示する気色悪い内容の催しだった。 一方、「第一うすい」の思い出は、何といっても昭和51年頃に屋上で開催された「スーパーカーフェア」だった。 ガルウィングの「カウンタック」や「フェラーリ」など超絶スポーツカーが郡山にやって来たのだった。 新聞やマスコミの過熱報道も手伝って、連日それを見たくて多くの買い物客が列を作った。 「スーパーカー」フィーバーは凄まじく、ガチャガチャのカプセルの消しゴムになったこともあるくらい一大ブームが沸き起こった。 「うすい」でも集客の目玉としてうすいの屋上に「スーパーカー」をクレーン車で吊り上げ、数台の超かっこいいマシンを並べて展示した。 一説では搬入の際に、うっかり傷を入れてしまい、多額の賠償金を払ったという噂まで飛び交った。 「デパ地下」という言葉が後から流行したが、私はよく友達と食品売り場に行き、夕方の小腹が空いた時間に試食コーナーを回った記憶がある。 また、おもちゃ売り場があって、そこで手当たり次第、置いてあるおもちゃを弄繰り回して遊んだことも覚えている。 なんだか泣けてくる・・・デパートの最上階にあった食堂の思い出 【昭和の思い出】昔のデパートは夢が詰まってたのに何でこんなつまんなくなっ ちゃったんだろ?【懐古】 続いて「丸光デパート」。 駅前のアーケードの入口角に7階建てでデーンと聳え立っていた。 今も建物自体は残り、朝日生命ビルとなっている。 駅前大通りの地下通路から地下1階に直結して店に入ることができた。 その地下通路では、ストリートミュージシャンがギター一本で歌っていたし、たまにはシートを広げ、自作ネックレスやアクセを売る若い行商もいた。 そしてアーケード南側の入口の角には、なぜか三万石が店を出していた。 確か「丸光デパート」は、床が木目のタイル張りだったと思う。 いつ訪れてもワックスの独特な臭いがした。 各階ともに商品の割りにスペースが広く、ガランとした印象があった。 ここでの思い出は、地下1Fの食品売り場で、友人と訪れ、格安の学生ラーメンを食たことが何度もあったし、6階のおもちゃ売り場、そして屋上の遊園地&ゲームコーナーは行きつけだった。 屋上遊園地は私と同年代以上の方は特に懐かしいと思う。 回転飛行機は徐々に高度 を増して廻旋速度も早くなるのだが、恐ろしいのは客が乗る飛行機型のキャビンがビルの外に出てしまうことだ。 子どもながらに恐怖心を植え付けられた。 初めて乗った時にはたぶん泣いて親を恨んだと思う。 ほかにも回転するコーヒーカップもあったし端には幌屋根つきのゲームコーナーがあった。 今思えば子ども騙しのピンボール型の長方形のゲームだが、それはかつて麓山にあった「児童文化会館」や「磐光パラダイス」に置いてあったゲームに似ていた。 一方「津野デパート」は窓がない総銀張りの外観でいかつい印象があった。 駅前大通りと国道4号線の北東側の角にあった。 1987年に廃業し、その後「第一イン」というホテルになった。 ここは呉服屋的な位置づけで、婦人服や着物を扱っていた。 私は中高の学生服を設える際にお世話になった。 当時は「トンボ学生服」と「富士ヨット学生服」が人気を二分していた。 その取扱店というイメージしかない。 その真向かいには「丸藤」という婦人服専門のスーパーもあった。 この津野デパートは市街地一円に土地を持つ大地主で、津野一族として名家だった。 その後、昭和52年頃に、百貨店競争が過熱する出来事があった。 本店が東京にある全国チェーンの大型デパートがこぞって郡山に進出した。 ご存知の通り、それは郡山駅が新幹線の停車駅となり、駅舎が建て替えられる頃の話で、駅前には「西友」、「丸井」が出店し、駅前の風景はガラリと変わってしまった。 また、大手スーパーの位置づけだった「ダイエー」が来た時には、地元のスーパーや「うすい百貨店」は警戒を強めた。 しかもダイエーは売り場面積が大きく、駅前の大町の一等地に店を構え、しかも当時は斬新な本館と別館を渡り通路で結ぶ作りだった。 郡山市民は買い物の選択肢が増え、駅前は活性化し人通りも多くなった。 東北有数の商都と呼ばれるまでになった。 しかし、その後、地元の「うすい」と「ダイエー」の安売り合戦が過熱し、客の争奪戦が展開された。 結果的に昭和の終わりにはダイエーが同系列のディスカウントストア「トポス」に身売り。 それよりも前に西友ストアが百貨店色の濃い「西武デパート」に切り替わったが、集客が思うように伸びず採算が合わず、共倒れの様相が明確になり、結果、平成に入り、西武と丸井は撤退し、トポスも閉店に追い込まれた。 そして、市民に根強い人気があった「丸光」「津野」も閉店に追い込まれた。 その後、校外の大駐車場を構える「ジャスコ」が日和田に完成。 旧日東紡跡地に「THE MALL郡山」が出店し、客足が取られる形になった。 イオン系列のスーパーセンターである「イオンタウン」が駅の東口に完成し、客の分散化が進んだ。 私はダイエーは気に入っていた。 しかし、売り場面積が各フロアともに狭く、敷居の高い「丸井」はあまり訪れた記憶がない。 「西武」はNゲージやレコードを買い求めに行った記憶がある。 何より、駅前に面したガラス張りのエレベーターが当時は珍しく、またエレベーターガールが一番可愛かったことから、小学生時分には、わざわざエレベーターを乗りに行った記憶がある。 さて、いろいろと書き綴ったが、これほど駅前周辺にあった映画館とデパートは、思い入れが強い。 それは小中高と郡山で学生生活を送った私にとって、駅前は刺激が多く、いろいろな誘惑があったからだ。 見るものすべて新鮮で、活力があった。 それにしても残念なのは、昔はデパートには付き物だった「アドバルーン」を見かけなくなったことだ。 空高く舞い上がり、遠くからでも「セール」を認知できたのに・・・。 最後に、本記事で掲載した箇所以外で、私がよく通い詰めた駅前の店を挙げて結びとしたい。 チロンヌップ アメリカ屋 BLUE HOUSE 靴のタカマツ 山の井 郡山中央スケートリンク トイスかんの 東北書店 ワタナベスポーツ 松英堂(楽器) 角海老 サービス映像 「昭和45年の郡山」 でこ屋敷、昔の郡山駅、FCT、三森峠の古代の村、染本ホテル、うすいの店内と屋上などが登場します! 記事作成:1月25日(木) SUZU様 ふとしたきっかけでブログに到着しUPされるのを楽しみにしておりました。 このたび終了のお知らせを拝見し非常に残念に思っている次第です。 長年に渡りお疲れ様でした。 私も1964年9月生まれ、学区は赤木小、桑野、六中でした。 高校も市内の学校に通い 今では、県外、国外にいる時間の方がが長くなってしいました。 郡山の昔話がでると読みふけり当時を思い出すきっかけになり、 また私の友人(同級生)芳山、六中の友人があり電話でブログを拝見しながら 当時の記憶をただっています。 彼曰く、すげーとほめていました。 なにやら品田青果の名前が出てきたときには、ここの裏に住んでたと興奮していました。 私は、あまりの奥の深さに参りました。 本日の映画館の記事で、高校時代バイトを映画館でやっていました。 たのきん映画は、テアトル、東宝 2館同時上映で、郡山ピカデリー担当の私も応援に行った記憶があります。 郡山ピカデリーB級映画がほとんどでしたが、ガンダムの公開時はすごかった。 また、ツゴイネルワイゼン(1980年)公開時鈴木清純監督がきて握手してもらった記憶があります。 記事の中で、テアトル郡山の名前が見当たらないのですが、当時(1980年ころは 駅ビルに(東宝、スカラあとひとつ思い出せない)が3階建てのビルにあり すべて、まとめてテアトル(東宝)系列、パレス(東映)系列と二分していました。 (お色気除く)でした。 上記は1980年 昭和55年~にかけての頃です。 東宝が、アーケードにあったのはわかりませんでした。 郡山東映のぼろ屋敷は覚えています。 映画館で、テアトル郡山はぜひ名前を出してほしいと思い書かせていただきました。 テアトルの支配人は(地獄の黙示録)はスゲー面白い。 と言ってテアトル公開にしたのですが、あまりにも難しく、娯楽映画ではなかったですが支配人の熱意はよく覚えてます。 もう少し友人と論議してみます。 (格好の話題になり盛り上がり必至です)(笑い) ・・・・鈴木さん、コメントありがとうございます。 同年代の方からのコメントに感謝感激です。 ライター名にフルネームが書かれていましたので、支障があるといけないので、一部改良させて掲載させていただきました。 また、せっかくですので、いただいたコメントを「郡山の昔話(映画館とデパート編)」に移動させていただきました。 ところで、ご指摘のあった「テアトル」は今も現役バリバリで営業を継続している映画館なので掲載しないでおきました。 ご容赦願います。 すみません。 無駄に郡山に長く住んでいましたので、昔のことはよく覚えています。 しかも相当美化されて・・・。 もしかすると同級生の方は、私の芳山小の同級生で、同じクラスだった可能性があるかもしれません。 また、郡山の記事で褒めていただきありがたいです。 「郡山の話題」というカテゴリーに、どうでもいいような記事を50近く書いてありますので、よろしければご覧ください。 もしかするともうご覧になったかもしれませんが。 また、鈴木さんのように郡山に関する記事を懐かしんで見てくれている方のコメントが多くことから、新規記事の更新は4月下旬に容量満杯とともに終了させていただきますが、要望の多かったこの「郡山の話題」と「旅行記」、「釣行記」の3つに関する記事だけは、5月以降も閲覧できるよう残したいと思います。 あと3ヶ月、当ブログをよろしくお願いします。 (SUZU) 追記 このシリーズ記事の第二弾「郡山の昔話(今は無き遊び場編)」を2月3日公開予定で掲載しますので、よろしかったらご覧ください。 投稿: 鈴木(洋) こんにちは。 時々このブログを訪れては懐かしい気持ちになっていました。 両親にもこのブログに掲載されていた動画や画像を見せると「懐かしい」ととてもよろこんでいました。 それだけにブログをやめられることがとても残念です。 郡山は日々変化しています。 この前通った時はこのお店なかったよな〜ってこともしばしば。 昔の面影がだんだんなくなっていくのは淋しいですが、それ以前にその建物が建つ前はどんな様子だったのか覚えていない自分にまた更に寂しさを感じます。 こうやって昔の記憶もなくなっていくんですね。 そんな貴重な資料を載せてくれて本当に感謝です。 私は小さい頃、堂前の方にいましたので文化センターが建つまえの事を良く覚えています。 スーパーカーのショーや動物園、サーカスなどが催されていました。 サーカスの子は私が通っていた小学校に転校してきて、サーカスがいなくなる1ヶ月間でまた転校していったのを覚えています。 その隣にはセンバイパチンコがあって、そこの子と良く遊びました。 文化センター通りもすっかり変わってしまい淋しいです。 長年おつかれさまでした。 これだけ濃い内容のブログを更新するのは大変だったと思います。 またいつか再開する時がありましたら。。 また絶対訪れたいと思います。 本当にありがとうございました! ・・・・めぐさん、コメントありがとうございます。 多くの方からブログを閉じることを残念がっていただけて、その言葉だけで感謝感激です。 9年間も続けて来れて良かったです。 何かやめるのが惜しくなってきました(笑)。 でももう容量が少なくて、5月のゴールデンウィークには確実に満杯になってしまいますので、やむを得ません。 我が街、郡山の昔を知る人間としては、まだまだ書き足りない話は山ほどあります。 伝えきれていないと心残りの方が多いです。 残された期間でしっかり伝えたいと思います。 ちなみに明日は「郡山の昔話」の遊び場編をお送りします。 ぜひ読んでください。 (SUZU) 投稿: めぐ.

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