かわい さ 余っ て 憎 さ 百倍。 可愛さ余って憎さ百倍の意味や語源とは?その使い方や例文、類義語は?

可愛さ余って憎さ百倍の意味や語源とは?その使い方や例文、類義語は?

かわい さ 余っ て 憎 さ 百倍

>私の場合は、母親が自分勝手な所があり、感情の激しい人だったので、少し距離があったと思います。 いや、正直にいえば、私の母も上の特徴が当てはまります。 ただなんと言いますかね、問題点を含めて受け入れるのも、才覚のうちだと思っています。 母親の行為は、暴力とも愛情とも両義的にとれるものだと思います。 しかしこれを愛情の方にとった自分を核としてものを考えるということです。 したがって、「母の愛を基準」にしているのとは少し違うのです。 母の愛を受けい入れ得た自分の感覚を基準としていると言った方がよいのかもしれません。 子供の頃はこれがすんなりできます。 しかし大人になると、難しいですね。 「本当に自分を愛しているなら、〇〇はこうするべきだったのにしなかった」なんていう理屈で、相手を責める知恵がついていますから。 まあ、母でなくても、相手を受け入れる経験があればいいと思います。 お礼ありがとうございます。 前半の方にお礼の返事、後半の方に愛憎について書きました。 劇画の世界かな?ということですが、世間で起こっていることは人の頭のなかで構築された役割に従って起きる劇のような要素が強いと思います。 その愛憎劇に振り回されない生き方というのは、いうなれば信心の世界でしょう。 ヒーローを語っているわけではないですからね。 雨ニモマケズの詩なんか近いものがあるんじゃないですか? 人間のパワーっていうのは、リアリティでないところに世界を作れることが一つあると思います。 劇画もその一つで、現代には多くを教えてくれる劇画・漫画でしかも面白いものも存在しますが、信心も、リアリティとはまた別の次元の生の活動と言ったところがありますね。 人は、基本的には、悪に傾くよりも善に傾倒するほうが望ましいでしょう。 多くの人が正義になりたがるつまらない世界のほうが実際には面白いですよ。 みんながダークヒーローになることを望んだら、破綻しますよ。 愛が愛がの虚構の世界と、憎し憎しが現実のISみたいな世界と、どちらがいいかって話ですね、極端なところ。 漫画に親しんだ世代の私からしたら、虚構は肯定されるもので受け入れやすくもあります。 変わらない国の質問でも書きましたが、もっと鋭く人と人は対立することがあってもいいんじゃないかと思います。 それが個人の生き方を育てる気がするんですよね。 憎しみって裏切られた感からくるものでもあるじゃないですか。 可愛さ余って・・・というのは愛に対する裏切りのことだと思うんですよ。 でも正直に対立してたら裏切りということもないですよね。 自立した個人を育てるには時に対立も必要だということです。 社会を信頼していた、日本を信頼していた、組織を、仲間を、家族を・・・という所に裏切られたという思いから憎しみが湧くんではないですか?会社が従業員を裏切り、資本家が労働者を裏切り、教師が生徒を裏切り、で、それぞれの反対も然り。 俺は裏切られた、お前は裏切った、の応酬だと憎しみゲージはどんどん溜まりますよ。 私は愛をあまり肯定しませんし、憎しみも否定しませんが、それが嫌なら離れるなり利用して転換するなりすればいいというスタンスです。 デビッドさんが今回、愛憎の質問を立てられた本当の理由は、浅慮の私にははかりかねますが、「時代としては、愛情が減り、憎悪の感情が増えていると実感しています。 これは、私自身の中でも同様です。 」の箇所に集約されているのかなと思ってます。 で、愛憎とは違う方向の解決の道筋があるのではないか?という問だと私は思ったんですね。 なぜなら愛憎は表裏一体であるということを、可愛さ余って憎さ百倍という言葉を引き合いに出すことでおっしゃっておられるように感じたからです。 本質的にそれを超えるには、愛憎とは別の道筋が必要だと。 それで、愛憎に振り回されない生き方の話を少ししたわけです。 ところで、私は質問によって回答をコロコロ変えますから矛盾しているように思われることもあるかもしれませんが、幾つもの思考パタンを用意しておきたいということで、そうなっています。 「愛」というものは欲望の一つで、なくとも生きてゆけるでしょう。 食欲とか性欲なんかは、ないと個体を維持できなかったり、子孫を残せなかったりするわけで、 絶対になくてはならないものですが、「愛」というものは人間の生を「豊かに」するために存在 するといっていいのではないかと思います。 仮に、大きな目標を立てて、それを叶えた人生であっても、家族との、仲間との、師的存在の人 との愛情のやり取りがなければ、寂しい人生でしょう。 しかし、近頃は、人間に対して深い愛情を持てないし、持てたとしてもそれが返ってくるとは思 えないので、必要以上の愛を持たないようにしているようです。 私は個人的には愛に代わるものはないと考えています。 ですから、愛を抑えた分だけ「返り」もセーブされたものになってしまうだろうと思うのです。 私に言わせれば「それはもったいない」ということになります。 従って、愛は出来るだけ持ち続けたいと思うのです。 大変に難しいと思いますが、「深い愛情のやり取り」 深い信頼のやり取りを伴う は成就させるこ とが可能だと思っています。 傷つくことにはもう慣れましたし、憎悪は大抵消えますから、私の場合。 一方、世の中を見ますと、「愛」は全体的に減っているのに、「憎」はとても多いということがど うも腑に落ちないのです。 つまり、「愛」の裏返しとしての「憎」ではなくて、なんか別の大きな原因がある気がするのです。 思想的結論の狭い人は、矛盾は見えずとも、人と相容れない場合が多いだろうと考えています。 うーむ。 経験的な答えで理論的にはなりません。 私の考えでは、無償の愛に触れることです。 私にとっては母の愛情がそういうものだったと思います。 大人になってからは、母の愛に似たものをそばに置き、忘れないことかと思います。 ただなかなか、これは難しいものです。 母の愛に似たものが存在しないということがまず一つ。 また、人間はともすれば全部忘れて、快・不快に還元してものを考えてしまいがちなものです。 忘恩の徒というべきか、能天気で忘れっぽいというべきか。 こうなると、不快なものが憎悪を呼び起こしていきます。 その歯止めはかからなくなります。 母の愛というものを見つけることは難しいですが、私は芸術作品などを愛好して、バランスを取っていますね。 人生うまく行ってないと、周りの物事が憎くなりますよね。 あれが悪いこれが悪い、あいつがこいつが、と悪者探しを始めます。 それは一面当たってるのかもしれませんが、俯瞰してみれば八つ当たりの様なもので根拠が薄弱だったりします。 人生うまく行ってると、他者の憎悪に気がつかないまま、自由奔放に、ともすれば有頂天になったりして、自分は世を肯定できて愛も深まって良いが、あらぬ恨みなどを買って良からぬことに遭ったりします。 人生がうまく行ってようがいまいが、ただ一つ、行く道を持っている人は、人の世の愛憎劇に振り回されることが無いんじゃないですかね。 人生が良い時にもそれに耽溺せず、悪い時にもそれに憂いて沈まず、心の健やかな人は、真っ直ぐに歩いて行くんでしょうね。 そんな人になりたいか?と問われたら、少なくとも悪くないなと、私ならば答えます。 二年前にここに参加して、最初の質問が、社会に対しての批判的なものでした。 けっこう暴力的なというか、ネチネチとした回答がありましたね。 今、もう一つ立てている質問は、私的に過去最高の社会批判的質問で、もっと 叩かれるかなと思いましたがそうでもなかったですね。 私の最も言いたいことの一つがこのあたりのことなんです。 タブーですよね、戦時中に「戦争反対」っていうようなものだろうと思ってい ます。 勿論、重要だと思っているから言うんです。 量子力学における観測問題については、どこまでが、観測装置としての系に入るかは、物理学者の間でも、かなり議論されている内容でしょう。 実験結果としては、最後の選択(と思われる行為)が、波動関数の収束をおこしていると言う事は確かなわけですが、どこまでが、観測装置なのかと言われれば、確かに難しい問題です。 結果を見た、観測者まで含めれば、観測者が結果を見るまで、波動関数の収束は起きていないと言う事も言えなくはないです。 ただし、記録装置の記録内容自体が、観測者が見るまで不確定と言うのも、おかしいような気がしますよね? ただし、記録内容は、観測者が見るまで、誰も見ていないわけです。 そういう意味では、それが、確定した記録と信ずる証拠も無い事になります。 もちろん、マクロの範囲ではそういう事はありませんし、一般的に記録媒体の記録が、見るまで不確定と考える人もいません。 量子力学が、「因果性」、「局在性」、「実在性」に対して、確率的な法則しか与えられない以上、理論が述べられるのは、そのような事でしか無いと言う事です。 今、仮に、観測者自身も、量子力学の範囲の観測系として、その不確定性の影響を受けるとすると、観測者自身も一定の確率で、その収束結果を見る存在として、存在すると考える事も可能になります。 そうならば、未来にAと言う結果と、Bと言う結果を見る観測者は、観測するまでに、同等の確率で存在しえた事になります。 そう考えれば、観測の直前までは、観測者自身も未来の可能性において、確率的存在だと言える事になります。 もちろん、その事によって、観測者自身が変わるわけではなく、その未来の可能性が不確定なだけです。 これが、いわゆる量子力学の「多世界解釈」という解釈の方法です。 多世界と言う言葉は、同時に複数の世界があると言う意味ではありません。 未来の分岐可能な世界が複数存在すると言う意味であり、SFなどのパラレルワールドと言う意味では無い事に注意してください。 観測者は、量子力学の実験において、波動関数が示す確率によって、違う観測結果を見る可能性を持つ存在として、観測前は存在していると言う事です。 そして、観測によって、ある観測結果を見る存在として、収束すると言う事です。 これは、ある可能性が捨て去られたと言う事ですから、ある意味、観測者自身も、その結果の影響を受けていると言えなくもないです。 ただ、これは、実験がある確率で測定結果を与える不確定性を持っていると言う事だけであり、未来は不確定と言うのは、ある意味、当たり前の事です。 表れない未来として、違う観測結果の未来は存在しえたが、観測によってそれが収束したと言う事は、観測するまで、未来が確定しない事は言えますが、人間が観測するまで、物理的存在が、存在しないと言う事まで言及しているとは言えないと思います。 お礼ありがとうございます。 量子力学における観測問題については、どこまでが、観測装置としての系に入るかは、物理学者の間でも、かなり議論されている内容でしょう。 実験結果としては、最後の選択(と思われる行為)が、波動関数の収束をおこしていると言う事は確かなわけですが、どこまでが、観測装置なのかと言われれば、確かに難しい問題です。 結果を見た、観測者まで含めれば、観測者が結果を見るまで、波動関数の収束は起きていないと言う事も言えなくはないです。 ただし、記録装置の記録内容自体が、... Q 私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を 手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。 もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ ういう時代になったと思うからです。 現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変 わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生 きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」 の考え方でとらえているのが多数派であろうと思います。 しかし、私はこの「状況倫理」という考え方は、信念を持とうとして持てな かった結果であり、一種の諦めであるように思えます。 その結果として、地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信 と断絶の状況になっているのではないでしょうか? 今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。 さて、絶対的な「善悪」というものは何なのかという「観念論」とともに、善悪 の基準を持つべきなのか、また、いかなる基準を持つべきかという「現実論」に ついて、ご意見をお聞きしたい。 私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を 手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。 もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ ういう時代になったと思うからです。 現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変 わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生 きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」 の考え方でとらえているのが多... Q ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらというこ とです。 (ほかの国の人びととは特には比べていません)。 昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか: 1. きわめて話し下手である。 2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。 3. そのくせ 人のことをよく見ている。 見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。 お年寄りには席をゆづる。 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。 決まりとは違うという意 味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。 6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまる と いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。 7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。 あほうと ばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。 ただし困っ ている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろう と最後まで奔走する。 いまは: 8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。 ところが中身にとぼしい。 9. 相手の粗さがしを考えている。 10. 道は相手がゆづるものと思っている。 11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。 12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないこ とをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。 13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・ 14. (11)と(12)の《誘導作戦》についてパタンが決まっている。 能 書きをしゃべくりからかす。 これが マジックである。 しかもすでに 思考回路 が 人びとのあたまには刷り込まれている。 条件反射のごとく右へ倣えに従う。 15. 能書きは かしこまるような有り難い言葉でなければならないが 内容 はないものでなければならない。 中身があっては 聞いている人たちが 優越感 に浸れない。 16. すなわち 人びとのあたまの中に 互いに地続きの《観念の運河》が築 かれている。 ここに 《パタンとなったマジック》ではない言葉でしゃべる分子 が現われる。 その独自のゴンドラを漕いでいると 寄ってたかって恒例の足引っ 張りなるイヴェントを始める。 ・・・のではないか? ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらというこ とです。 (ほかの国の人びととは特には比べていません)。 昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか: 1. きわめて話し下手である。 2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。 3. そのくせ 人のことをよく見ている。 見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。 お年寄りに... 2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれ るか? 3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題 に心から同意することと同時なのではないか? 4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし てあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないの だ。 この認識とそれに見合った身における感性的な秩序のようなものが成り立 つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。 こう考えました。 2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれ るか? 3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題 に心から同意することと同時なのではないか? 4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし てあるので... A ベストアンサー No. 25です。 それはおかしいですね。 貴方のご質問は 「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」 です。 ですので、「賛同してない例」を上げました。 1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。 (もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。 ) 逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。 もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。 また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。 「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。 貴方の求める回答は何でしょうか? 互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。 もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。 まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。 この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。 さすがに少々疲れました。 ご了承ください。 25です。 それはおかしいですね。 貴方のご質問は 「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」 です。 ですので、「賛同してない例」を上げました。 1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判... A ベストアンサー #76です。 : 了解しました。 >でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。 : いえいえ、そうとは限りませんよ。 少なくともわたしはそう認めています。 ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。 つまり、 『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。 しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。 』 といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。 さもなければ 《無限》が 有限世 界と地続きだとなります。 こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。 : 違います。 : といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。 という言及に関して、 ・原因=有限での経験事象 ・最終原因=無限の夢幻境での事象 のように分けてお考えなのだと思います。 説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。 #76です。 : 了解しました。 >でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。 : いえいえ、そうとは限りませんよ。 少なくともわたしはそう認めていま...

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可愛さ余って憎さ百倍

かわい さ 余っ て 憎 さ 百倍

スポンサーリンク 多くの人が知っている 『可愛さ余って憎さ百倍』ですが、 意味としては 「可愛いと思う人のことを 一度憎いと思ってしまうと、 可愛さの100倍くらい 憎いと感じてしまう」 と言うことです。 もう少し詳しく解説していくと、 『 可愛さ』というのは、 恋人やとても大切な存在の人を 好きだと思う気持ちです。 『 余って』は、限度を超えて。 『 憎さ』は、相手の態度が気に入らず 嫌になる気持ちです。 どのような状態のことを指すのかは、 恋人や親友に裏切られたりしたときや 思いが通じなかった時、 相手を嫌いになり始めてしまいます。 この嫌いな気持ちは 好きだったときの思いより、 極端に大きいものに なってしまうようなことです。 あまり思い出したく無いでしょうが、 もしかすると一度は そんな経験をしたことがありませんか。 親友には何でも話せていたから、 他の友達には言えなかった悩み事も 何でも相談できた。 その親友は いつも親身になって 相談に乗ってくれて、 『この人に相談して良かった』 と心から信頼していた。 そんなある日、 ネットの掲示板に衝撃の事実が。 心から信頼していた親友が、 自分の事を馬鹿にしている 裏の顔を知ってしまった。 ショックでその友人とは 一切連絡を取らなくなった。 信用していた分、 裏切られた時の憎さは ものすごいものだった。 というような、 内容の再現VTRを テレビで見たことがあります。 私は『可愛さ余って憎さ百倍』 というような経験は無かったのですが、 そのVTRを見て 「これは憎くなるわな」 と思ったのであくまで一例として 紹介してみました。 このように、 このことわざの意味は 皆さんが解釈している意味と ほぼ同じのようですね。 知って納得! 可愛さ余って憎さ百倍の心理 男女の恋愛でも 「可愛さ余って憎さ百倍」 のようなトラブルで 警察沙汰になる事件もありますよね。 ニュースなどでも原因となるのが、 男女の交際によるトラブルとして 交際相手を傷つけてしまう事例が 多多あります。 あることが発端となって 相手のことを「愛する」 という感情から 「 強い憎しみ」 に突然入れ替わってしまうことを 心理学では、『カタストロフィー理論』 と言います。 この理論は、 相手への愛情が強ければ強いほど 裏切られた時の憎しみは とても強くなるというものです。 誰かを好きになることは とても良いことです。 お互いに愛情を感じて 交際が順調でいるうちは、 バランスがとれています。 しかし、一方にとって決定的となる 裏切り行為が行われてしまった場合、 「自分はあなたのことを こんなにも愛しているのに、 なんで裏切るの。 絶対に許せない」 と強く思うことが憎しみになります。 女性なら経験があるとは思いますが、 彼氏が他の女の子と 仲良く話していただけで 嫉妬してしまう人もいるでしょう。 ちょっとした嫉妬は 日常生活で起こりうることです。 しかし、極端な人は この嫉妬の感情が歪んだ愛に変わり ストーカー殺人になってしまったり 片思いの相手に対しても 同じような嫉妬の感情を持つなど 歪んだ愛へと変わってしまうことも。 こういった自己愛が強烈な人は、 自分を抑制して相手の気持ちや 立場を一切考えることができない 心理状態に陥ってしまうのです。 【まとめ】 可愛さ余って憎さ百倍 ということわざは、 相手のことを大切に思えば思うほど 裏切られた時の憎しみは とても大きいものになってしまう といった意味になります。 人は愛すると同時に 憎んでしまうものです。 相手を独占したいと言う気持ちが 強いからです。 自己愛がとても強い人は、 「可愛さ余って憎さ百倍」 の度合いを誤りやすいので 相手を傷つけてしまうのです。 もしそうであるのなら今一度、 自分の言動を見つめ直し 改善していくしか無いのでしょうね。

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可愛さ余って憎さ百倍

かわい さ 余っ て 憎 さ 百倍

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