よう ざん りゅう の ね つ りん。 劉墉(りゅうよう)とは

生地の楊柳(ようりゅう)とは?

よう ざん りゅう の ね つ りん

[生]康煕58 1719 [没]嘉慶9 1804 中国,清の政治家,書家。 山東省諸城の人。 字は崇如,号は木庵,石庵,青原,日観峰道人など諡 おくりな は文清。 宰相,劉統勲の長子。 乾隆 16 1751 年進士。 かんりんいん に仕え,体仁閣大学士となりにいたった。 高く詩文に長じ,書をよくした。 清のにおいてと並ぶとして名高い。 その書は豊麗のなかに高雅なを蔵し,『清愛堂石刻』『曙海楼帖』などに集刻されている。 真跡は元の何中の詩『早起』 京都国立博物館 など遺例が多い。 また『劉文清公遺書』『文清公応制詩』がある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 中国、清 しん 代中期の政治家、書家。 山東省諸城の人。 東閣大学士、劉統勲の長子。 字 あざな は崇如 すうじょ 、号は石庵 せきあん。 1751年(乾隆16)進士に合格。 翌年翰林 かんりん 院に入り、97年(嘉慶2)体仁閣大学士を経て宰相となった。 経・史・諸子百家に通じ、詩文をよくし、とりわけ書法を得意とした。 初め家風を受けて趙子昂 ちょうすごう を学んだが、のち蘇軾 そしょく 、董其昌 とうきしょう を、晩年には北朝の碑版に心を寄せ、一家をなした。 とくに小楷 しょうかい に優れ行草にも長じ、豊麗で気骨を内蔵し、高雅な情趣をたたえた独特の書風で珍重された。 好んで濃墨を用いて重厚さを出したため、濃墨宰相の称があり、帖学 じょうがく 派の雄と仰がれる。 詩集『劉文清公遺集』『応制詩集』があり、ことに論書七絶の『学書偶成』30首が著名である。 [角井 博] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について.

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土づくり肥料・ようりん

よう ざん りゅう の ね つ りん

馬を立(とど)め、君を煩わして一枝を折る。 惟(ただ)春風の最も相惜しむ有り。 殷勤(いんぎん)に更に手中に向って吹く。 詩に云う。 水辺の柳は、麹にひく糸のように細やかな、黄緑色の若芽が萌え出でている。 馬を止め、君の手を煩わせて、その一枝を折り取ってもらった。 するとどうだろう。 春風が、柳の枝との別れを惜しむように、私の手の中にまで慇懃に吹いてくるではないか。 「折楊柳」とは、単独の詩の題名ではなく、楽府題(がふだい)という定番のテーマの一つである。 楽府(がふ)の歴史は漢代にまでさかのぼる。 ただし、漢代の楽府は楽器の伴奏と歌唱をともなう詩歌であったが、唐代のそれは必ずしも演奏形式のものではなかったらしい。 むしろ作詩の工夫のほうに重点が置かれていたのであろう。 したがって、同じ楽府題に複数の作者が詩を残している場合も多い。 この詩の作者は楊巨源(よう きょげん)という。 770年ごろの生まれらしいが、生没年ははっきりしない。 若くして進士に及第したのは確かなので、才能のあった人物なのであろう。 古来より中国では、送別の際に楊柳の枝を取って輪をつくり、旅立つ友へ贈る習慣があった。 もっともこの詩が、実際に別離の場面で詠じられたかというと、どうもそうではないような気がする。 送別詩の絶唱である王維「元二の安西に使いするを送る」のような、旅中の無事を切に祈って友を送り出す際の、情感の高まりが見られないからである。 むしろこれは、手折った柳の小枝に春風が香るという表現上の機知を楽しむために、「別離の場面を仮想して作った詩」と見たほうがよいようだ。 漢詩のなかの春の風景も、なかなか捨てがたい。 やわらかな陽光に映える水辺の柳。 今の中国に、それを探すことは甚だ難しくなった。

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游鈴 (リュウリン)

よう ざん りゅう の ね つ りん

馬を立(とど)め、君を煩わして一枝を折る。 惟(ただ)春風の最も相惜しむ有り。 殷勤(いんぎん)に更に手中に向って吹く。 詩に云う。 水辺の柳は、麹にひく糸のように細やかな、黄緑色の若芽が萌え出でている。 馬を止め、君の手を煩わせて、その一枝を折り取ってもらった。 するとどうだろう。 春風が、柳の枝との別れを惜しむように、私の手の中にまで慇懃に吹いてくるではないか。 「折楊柳」とは、単独の詩の題名ではなく、楽府題(がふだい)という定番のテーマの一つである。 楽府(がふ)の歴史は漢代にまでさかのぼる。 ただし、漢代の楽府は楽器の伴奏と歌唱をともなう詩歌であったが、唐代のそれは必ずしも演奏形式のものではなかったらしい。 むしろ作詩の工夫のほうに重点が置かれていたのであろう。 したがって、同じ楽府題に複数の作者が詩を残している場合も多い。 この詩の作者は楊巨源(よう きょげん)という。 770年ごろの生まれらしいが、生没年ははっきりしない。 若くして進士に及第したのは確かなので、才能のあった人物なのであろう。 古来より中国では、送別の際に楊柳の枝を取って輪をつくり、旅立つ友へ贈る習慣があった。 もっともこの詩が、実際に別離の場面で詠じられたかというと、どうもそうではないような気がする。 送別詩の絶唱である王維「元二の安西に使いするを送る」のような、旅中の無事を切に祈って友を送り出す際の、情感の高まりが見られないからである。 むしろこれは、手折った柳の小枝に春風が香るという表現上の機知を楽しむために、「別離の場面を仮想して作った詩」と見たほうがよいようだ。 漢詩のなかの春の風景も、なかなか捨てがたい。 やわらかな陽光に映える水辺の柳。 今の中国に、それを探すことは甚だ難しくなった。

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