吉田 茂。 高松市 NHK高松放送局 弁護士 佐野・吉田茂法律事務所

吉田茂とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

吉田 茂

吉田茂のプロフィール 吉田茂元首相は、 1878 年 9 月 22 日、東京都の出身です。 実父は板垣退助の側近の竹内綱でしたが、竹内綱の友人だった吉田健三の養子となって、竹内姓から吉田姓に変わることになりました。 旧制学習院高等学科、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省に入省。 その後、外交官として、吉田茂元首相は、奉天総領事、駐スウェーデン公使、外務次官、駐イギリス大使などを歴任し、外交の第一線で活躍していきます。 太平洋戦争後は、外務大臣、貴族院議員となり、 1946 年、内閣総理大臣に就任しました。 1947 年には、衆議院議員選挙で、自身が総裁を務める日本自由党が日本社会党に敗北し、退陣。 しかし 1948 年、衆議院議員選挙で、自身が総裁を務める民主自由党が圧勝したことによって、内閣総理大臣に再登板をはたします。 内閣総理大臣在任中には、日本国憲法の施行、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約の発効、教育基本法、労働関係調整法、労働基準法、労働組合法、警察法、自衛隊法、防衛庁設置法の施行など、内政、外交あわせ、多大な実績を残しています。 その一方で、 1953 年には、「バカヤロー」と発言し、衆議院解散となった、バカヤロー解散でも有名に。 そして 1954 年、吉田茂元首相は退陣し、長期政権に幕を下ろしたのでした。 政界引退後も悠々自適の生活を送った吉田茂元首相は、 1967 年 10 月 20 日、 89 歳で激動の生涯を閉じています。 吉田茂の内縁の妻こりんの本名や経歴 このように、日本の憲政史上、トップクラスの大物政治家だったといえる、吉田茂元首相。 当然、その閨閥も華やかなもので、妻で、麻生太郎財務大臣(元首相)の祖母でもある吉田雪子さんは、牧野伸顕の娘でした。 ところが、吉田茂元首相は、吉田雪子さんに戦前に先立たれてしまい、内閣総理大臣在任中は、娘の麻生和子さんがファーストレディーの代わりを務めていたのです。 一方で、吉田茂元首相は、吉田雪子さんと死別した後、すぐに、内縁の妻を迎えることに。 それが、この記事で取り上げる、そして、ドラマ『アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理吉田茂~』に登場する、こりんさんです。 こりんさんは、本名を坂本喜代子といい、 2003 年 2 月に、 96 歳で大往生しています。 そのため、生年は 1906 年か 1907 年となりますね。 2020 年 2 月現在も健在だったら、 113 歳でした。 こりんさんの経歴ですが、芸者で、花柳流の名取としても活躍していました。 吉田茂元首相が吉田雪子さんと死別すると、しばらくは内縁の妻という扱いでしたが、数年後には堂々と再婚しています。 以後、こりんさんは、最後まで吉田茂元首相の身の回りの世話をして、活躍しました。 後妻という立場だったものの、娘の麻生和子さんとも、関係はとくに悪くはなかったようです。 吉田茂の内縁の妻こりんの実際の画像と子供の有無 吉田茂元首相の後妻ということもあって、こりんさんの実際の画像、子供はいたのかも気になります。 しかし、もともと内縁の妻だったこともあって、画像を見つけることはできませんでした。 子供は、少なくとも吉田茂元首相とのあいだにはいなかったようですね。 もしいたとしたら、 2020 年 2 月現在、最低でも 50 代くらいになっていたことになります。 吉田茂元首相の孫の麻生太郎財務大臣より若かった可能性もありますから、そうだったらいろいろ微妙だったでしょうね。 吉田茂元首相に、後妻をめぐるエピソードがあったことは、そこまで知られていません。 それだけに、ドラマ『アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理吉田茂~』は注目です。 吉田茂元首相役は笑福亭鶴瓶さん、こりん役は松嶋菜々子さんが演じますので、ぜひ見逃さないようにしましょう。

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吉田茂の家系図に麻生太郎!こんなに豪華な血筋だった

吉田 茂

[生]1878. 東京 [没]1967. 神奈川,大磯 政治家。 竹内綱の五男。 吉田家を継ぐ。 1906年東京大学卒業。 イギリス,中国などの領事を経て外務次官 1928 ,イタリア,イギリス各大使となり,1939年退官。 第2次世界大戦末期には和平工作に努力,1945年東久邇,幣原両内閣の外務大臣。 1946年総裁。 同 1946年5月第1次吉田内閣を組閣,新憲法を制定。 1947年4月選挙でに敗れて。 1948年 10月第2次,1949年2月第3次内閣を組織,1951年9月対日講和会議の首席全権として,に調印。 同 1953年5月第5次内閣を組織したが,1954年に指揮権を発動,国会内外のと党内反の大量脱党で 12月総辞職,政界を引退した。 しかし,の,両内閣のもとで元老的地位を保持した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 政治家。 第二次世界大戦後の占領下から独立回復期にかけて5次、計7年の間、首相として戦後日本政治の方向を定めた。 土佐自由党の指導者竹内綱 たけのうちつな の五男として東京に生まれ、横浜の貿易商吉田健三の養子となる。 養母士子 ことこ の家系から儒学の影響を受け、杉浦重剛 すぎうらしげたけ の日本中学で学んだことから、漢学の素養、国士風の思想、ブルジョア趣味とが混じり合って、のちに「ワンマン」といわれる個性が生まれた。 学習院を経て1906年(明治39)東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入る。 同期に後の首相広田弘毅 ひろたこうき がいた。 妻は明治の元勲大久保利通 おおくぼとしみち の二男で内大臣の牧野伸顕 まきののぶあき の娘雪子。 中国勤務が長くとくに奉天総領事として日本の権益拡張を図った。 1928年(昭和3)田中義一 たなかぎいち 内閣に自薦して外務次官となるが、翌1929年浜口雄幸 はまぐちおさち 内閣のリベラル外相幣原喜重郎 しではらきじゅうろう の手で駐伊大使に転出。 1936年広田内閣に外相か内閣書記官長として入閣のはずが、「親英米派」を理由に軍部が反対、駐英大使となる。 日独防共協定に終始反対したこと、また太平洋戦争末期に近衛文麿 このえふみまろ 元首相らと和平工作を企て陸軍刑務所に収監されたことで、戦後に和平主義者として復活した。 東久邇稔彦 ひがしくになるひこ 、幣原両内閣の外相を務め、GHQ(連合国最高司令部)との交渉役としてマッカーサー総司令官と知り合う。 1946年(昭和21)5月組閣直前に自由党総裁鳩山一郎 はとやまいちろう が追放された後を受けて、第一次吉田内閣を組閣、外相を兼ねた。 憲法改正など占領改革のほとんどに反対であったが「良き敗者」としてマッカーサーに協力。 翌1947年二・一ゼネスト禁止後の総選挙で社会党が第一党となると、いさぎよく下野した。 1948年10月芦田均 あしだひとし 内閣が汚職で総辞職したあと第二次吉田内閣を組織、経済復興に力点を移した米占領政策に忠実に、経済安定九原則の実施と大幅な行政整理を行い、朝鮮戦争が始まる(1950)と、警察予備隊創設による日本再軍備、レッド・パージと「逆コース」に協力した。 また「吉田学校」に集う旧官僚の政界進出を図り、池田勇人 いけだはやと 、佐藤栄作両首相につながる保守本流路線を確立した。 1951年全面講和論を退けて自由主義諸国と対日講和条約を結び、さらに日米安全保障条約の締結によって軽軍備による経済発展を目ざしたことは、アメリカの冷戦戦略に日本を組み込むこととなり、外交の自主性を失ったという批判は絶えない。 1954年党内外の非難を浴び退陣したが、引退後も元老として影響力を持ち続け、高度経済成長の仕掛け人として死後に評価が高まっている。

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父 吉田茂 (新潮文庫)

吉田 茂

[生]1878. 東京 [没]1967. 神奈川,大磯 政治家。 竹内綱の五男。 吉田家を継ぐ。 1906年東京大学卒業。 イギリス,中国などの領事を経て外務次官 1928 ,イタリア,イギリス各大使となり,1939年退官。 第2次世界大戦末期には和平工作に努力,1945年東久邇,幣原両内閣の外務大臣。 1946年総裁。 同 1946年5月第1次吉田内閣を組閣,新憲法を制定。 1947年4月選挙でに敗れて。 1948年 10月第2次,1949年2月第3次内閣を組織,1951年9月対日講和会議の首席全権として,に調印。 同 1953年5月第5次内閣を組織したが,1954年に指揮権を発動,国会内外のと党内反の大量脱党で 12月総辞職,政界を引退した。 しかし,の,両内閣のもとで元老的地位を保持した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 政治家。 第二次世界大戦後の占領下から独立回復期にかけて5次、計7年の間、首相として戦後日本政治の方向を定めた。 土佐自由党の指導者竹内綱 たけのうちつな の五男として東京に生まれ、横浜の貿易商吉田健三の養子となる。 養母士子 ことこ の家系から儒学の影響を受け、杉浦重剛 すぎうらしげたけ の日本中学で学んだことから、漢学の素養、国士風の思想、ブルジョア趣味とが混じり合って、のちに「ワンマン」といわれる個性が生まれた。 学習院を経て1906年(明治39)東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入る。 同期に後の首相広田弘毅 ひろたこうき がいた。 妻は明治の元勲大久保利通 おおくぼとしみち の二男で内大臣の牧野伸顕 まきののぶあき の娘雪子。 中国勤務が長くとくに奉天総領事として日本の権益拡張を図った。 1928年(昭和3)田中義一 たなかぎいち 内閣に自薦して外務次官となるが、翌1929年浜口雄幸 はまぐちおさち 内閣のリベラル外相幣原喜重郎 しではらきじゅうろう の手で駐伊大使に転出。 1936年広田内閣に外相か内閣書記官長として入閣のはずが、「親英米派」を理由に軍部が反対、駐英大使となる。 日独防共協定に終始反対したこと、また太平洋戦争末期に近衛文麿 このえふみまろ 元首相らと和平工作を企て陸軍刑務所に収監されたことで、戦後に和平主義者として復活した。 東久邇稔彦 ひがしくになるひこ 、幣原両内閣の外相を務め、GHQ(連合国最高司令部)との交渉役としてマッカーサー総司令官と知り合う。 1946年(昭和21)5月組閣直前に自由党総裁鳩山一郎 はとやまいちろう が追放された後を受けて、第一次吉田内閣を組閣、外相を兼ねた。 憲法改正など占領改革のほとんどに反対であったが「良き敗者」としてマッカーサーに協力。 翌1947年二・一ゼネスト禁止後の総選挙で社会党が第一党となると、いさぎよく下野した。 1948年10月芦田均 あしだひとし 内閣が汚職で総辞職したあと第二次吉田内閣を組織、経済復興に力点を移した米占領政策に忠実に、経済安定九原則の実施と大幅な行政整理を行い、朝鮮戦争が始まる(1950)と、警察予備隊創設による日本再軍備、レッド・パージと「逆コース」に協力した。 また「吉田学校」に集う旧官僚の政界進出を図り、池田勇人 いけだはやと 、佐藤栄作両首相につながる保守本流路線を確立した。 1951年全面講和論を退けて自由主義諸国と対日講和条約を結び、さらに日米安全保障条約の締結によって軽軍備による経済発展を目ざしたことは、アメリカの冷戦戦略に日本を組み込むこととなり、外交の自主性を失ったという批判は絶えない。 1954年党内外の非難を浴び退陣したが、引退後も元老として影響力を持ち続け、高度経済成長の仕掛け人として死後に評価が高まっている。

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