テオドシウス の 城壁。 鉄壁だったコンスタンティノープルの壁☆Theodosius surları(テオドシウスの城壁)

ガラタ橋 (Galata Bridge)

テオドシウス の 城壁

イスタンブールのホテル アクギュン(AKGUN ISTANBUL HOTEL)にチェックインしてから、オスマン宮廷料理レストラン アシターネ(asitane)を書いた。 15日間のエジプト・トルコ大周遊モニターツアーの3日目、6月22日。 この日は金曜日で、イスラムの世界では午後から集団礼拝がある。 エディルネのモスク見学が13時からの予定やったけど、観光客は午後からは入れなくなるので、出発時間が8時半から7時45分に早まった。 4時半には目が覚めて、6時ごろホテルのレストランへ行った。 生ものは避けるようと言われてるけど、それやと食べるもんがなくなる。 ヨーグルトとパン、チーズ、キュウリ、トマト、スイカ、干しいちじくなどをちょこちょこつまむ。 出発まで時間があったので、まわりをお散歩することに。 ホテルの前のアドナン・メンデレス大通り(Adnan Menderes Boulevard)を左のほうに1、2分歩くと、テオドシウス2世の城壁がある。 ロマノス門 現トプカプ門 とカリシウス門 現エディルネ門 のちょっとロマノス門寄りの場所。 大通りのところで、城壁は分断されてる。 城壁沿いのスルクレ通り(Sulukule Cad)を歩いていくと、城壁に登る小道があった。 城壁の上は遊歩道になってた。 アザミの花が咲き、イチジクの木も茂ってた。 今は高速道路が走ってる側を、1453年メフメット2世が率いるオスマン帝国軍が埋めていた。 イスタンブールの前身であるコンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマからビザンティウムに遷都して改名した都市。 395年に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)となってからも首都であり続け、発展してきた。 皇帝テオドシウス2世によって413年に現在のイスタンブール旧市街の西側をすっぽり覆うように城壁が造られた。 のテオドシウスの城壁紹介によると、 「内城壁は厚さ5m、高さ8-12mで、内城壁と外城壁の間に幅15-20mの通路がある。 外壁は厚さ10m、高さ8. 5mで、その外側に高さ2mの胸壁、外城壁の外には幅20mの濠がつくられた。 96の高さ18m-20mの物見塔は内壁と外壁に交互に55mおきに配置されており、そのほかに、小さな秘密扉、一般用と軍事用の門が各5で計10の門が設けられた。 コンスタンティノープルは616年と626年にペルシア、717-718年にアラブ、813年にブルガリア、864年と904年にロシア、959年にハンガリー、1043年に再びロシア、1391年と1422年にオスマン帝国から攻撃を受けたが、いずれもこの城壁を破ることはできなかった。 」 北は金角湾、南はマルマラ海、西は城壁と三角形の地形の周囲を守られ、1000年もの間落ちることがなかった難攻不落の都に1453年攻め入ったのが、21歳になって間もないオスマン帝国第7代皇帝メフメット2世。 このあたりは、激戦区だったらしい。 爆破痕の残った塔に、プレートがはめこまれてた。 塔の左側にトルコの国旗がはためいてた。 たぶんファーティフ区役所のあるとこやと思う。 歴史の運命を感じながら、城壁をあとにした。 15日間のエジプト・トルコ大周遊モニターツアーの旅、続く。 旅行当時のレート、1トルコリラ(TL)47.2円。

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コンスタンティノープルの城壁

テオドシウス の 城壁

失われた栄光〜テオドシウス朝〜 ローマ帝国史略 失われた栄光〜テオドシウス朝〜 ヴァレンス帝戦死の知らせは、帝国に新たな時代の到来を告げるものだった。 西ゴート族は、もはや帝国の外に追放することは不可能な帝国の異物となってしまったのである。 帝国未曾有の危機に、西の皇帝グラティアヌスはイスパニアに隠遁生活を送っていたテオドシウスに白羽の矢を立てる。 東の皇帝となったテオドシウス1世はグラティアヌスの期待に応え、西ゴート族を一時的に懐柔する。 しかし、テオドシウス1世の作った束の間の安定も長くは続かなかった。 395年テオドシウス1世の死により、2人の息子が帝国を受け継いだ。 東の皇帝アルカディウス、西の皇帝ホノリウス。 テオドシウス1世亡き後、蛮族は活動を活発化させ始める。 目指すは、肥沃な土地を持つ属州アフリカ。 西ゴート族のアラリック1世、ヴァンダル族のガイセリック、そしてフン族のアッティラ。 もはや、時代を動かすのはローマの皇帝ではなく、蛮族の王達だった。 そして、起こるべくして歴史的事件は起こった。 西ゴート王アラリック1世によるローマ占領。 ローマ市はもはやかつての政治的地位を持ってはいなかったが、今なお帝国の精神的支柱であった。 この事件は一時的なものだったが、帝国に与えた影響は計り知れなかった。 さらに、ヴァンダル族がアフリカに侵入、東ローマの援軍も撃退し、完全な独立国としてヴァンダル王国を建設。 そして、ついにフン王アッティラの西帝国侵攻が始まったのである。 皇 帝 名 皇 帝 評 政治 能力 軍事 能力 業績 テオドシウス1世帝 379〜395 ローマ帝国最後の統一皇帝。 父の大テオドシウスの処刑後、イスパニアで隠遁生活を送っていたが、西ゴート族のドナウ川渡河とそれに続くハドリアノポリスでの東帝ヴァレンスの敗死により、西帝グラティアヌスに東の皇帝に指名され、皇帝として即位した。 ハドリアノポリスでの勝利を活用出来なかった西ゴート族を軍事的に封じ込めた上で、テオドシウス1世は老王アタナリックの死に際しコンスタンティノポリスで盛大な葬儀を行い、西ゴート族の忠誠を勝ち取ることに成功する。 しかし、帝国領内であるトラキアに同盟部族として西ゴート族の居住を認めることを避けることは出来なかった。 ブリタニアの僭帝マグヌス・マクシムスが西帝グラティアヌスを敗死させると、テオドシウス1世はヴァレンティニアヌス2世をイタリアで支援。 復讐戦に積極的ではなかったテオドシウス1世の意向もあり、3者の均衡が保たれるかに見えたが、マクシムス軍がヴァレンティニアヌス2世が統治するイタリア半島に侵入すると、テオドシウス1世も重い腰を上げ西征を開始。 テオドシウス1世との決戦に敗れたマクシムスは処刑された。 しかし、テオドシウス1世がヴァレンティニアヌス2世の後見人に選んだフランク人の部将アルボガストがヴァレンティニアヌス2世を暗殺。 アルボガストが、最後の異教皇帝エウゲニウスを即位させるに及び、テオドシウス1世は再度西征を行い、アルボガスト、エウゲニウスを滅ぼし、ローマ帝国最後の統一を果たした。 テオドシウス1世は、宗教的にはキリスト教正統派の優位を認め、異教、異端の権利を厳しく制限した。 (キリスト教の国教化)テッサロニカ虐殺事件に伴うメディオラム司教アンブロシウスの破門に、テオドシウス1世が屈服、謝罪したのは、その象徴的な出来事である。 異教の祭典であるギリシアのオリンピア競技を廃止したのも、テオドシウス1世の時代である。 西方でのエウゲニウス討伐後、テオドシウス1世は病に伏し、まもなく死去した。 その死に際し、帝国の東部をアルカディウスに西部をホノリウスに受け継がせ、それぞれルフィヌス、スティリコを後見人として残した。 危機的な状況のローマ帝国を崩壊から救ったのは、疑いなくテオドシウス1世の絶大な功績といえる。 しかし、最終的に西ゴート族の領内定住を認めざるを得なかったのは、後継者に禍根を残した。 もはや、蛮族の移住は一人の皇帝の尽力だけでは、完全に防ぐことは出来なくなっていたのである。 B A A 同時代人 人 物 評 アタナリック 西ゴート王。 フリティゲルンの死後、一時分裂状態に陥った西ゴート族の王に選出され、テオドシウス1世と盟友となる。 テオドシウス1世はアタナリックの葬儀を盛大に行うことで、西ゴート族の歓心を買い、西ゴート族はテオドシウスの存命中はローマの忠実な同盟部族となった。 グラティアヌス ヴァレンティニアヌス1世の長子。 父帝の死後、西方の皇帝として帝位を継承していた。 ハドリアノポリスの戦いで東帝ヴァレンスが戦死したのに際し、隠遁生活を送っていた(小)テオドシウスを東帝に指名した。 即位前のテオドシウス1世の隠遁のきっかけとなった大テオドシウス(テオドシウス1世の父親)の処刑(おそらく冤罪)を指示したのも、グラティアヌスである。 僭帝マクシムスがブリタニアで挙兵しガリアに進軍を開始すると、それを迎え撃ったが敗死した。 ヴァレンティニアヌス2世 ヴァレンティニアヌス1世の息子で、グラティアヌスの弟。 軍隊によって擁立されたグラティアヌスの共治帝。 グラティアヌスの死後、テオドシウス1世の影響下で、イタリア以西を統治した。 テオドシウス1世にフランク人の部将アルボガストを後見人としてつけられる。 しかし、ヴァレンティニアヌス2世はそのアルボガストによって、暗殺されることになる。 アンブロシウス メディオラム司教。 グラティアヌス、テオドシウス1世に対して絶大な影響力を有していた。 テッサロニカ虐殺事件を期にテオドシウス1世を破門。 テオドシウス1世に贖罪を要求し屈服させた。 アンブロシウスの弟子の中には「神の国」の著者アウグスティヌスがいることでも知られている。 マグヌス・マクシムス ブリタニア総督。 西帝グラティアヌスを敗死させ、ガリア、ブリタニアを根拠に帝位を主張。 テオドシウス1世も一時それを認めたが、マグヌス・マクシムスはイタリアに侵入。 ヴァレンティニアヌス2世を救援に来たテオドシウスに破れて、処刑された。 この内戦でブリタニアのローマ軍が空白状態になり、ホノリウス時代にブリタニアを放棄することになる遠因の一つとなっている。 エウゲニウス 異教徒の元老院議員。 ヴァレンテニアヌス2世の死後、アルボガストに擁立され、ローマ史上最後の異教皇帝となる。 テオドシウス1世とエウゲニウスの内戦はキリスト教と反キリスト教の最後の戦いという側面も持っていた。 テオドシウス1世に破れ処刑される。 アルボガスト フランク族出身の部将。 テオドシウス1世にヴァレンティニアヌス2世の後見を託されるが、期待を裏切りヴァレンティニアヌス2世を殺害。 エウゲニウスを皇帝に擁立し、テオドシウス1世に決戦を挑むが、敗北自殺した。 ルフィヌス ガリア出身の能弁家。 テッサロニカ虐殺事件においてテオドシウス1世の怒りを扇動した。 同僚達からは憎まれたが、テオドシウス1世の信頼は篤くアルカディウスの後見人となった。 スティリコ ヴァンダル族出身の部将。 対ペルシア、エウゲニウスの戦争で 功績を挙げ、テオドシウス1世の姪セレナと結婚した。 ホノリウスの後見人となる。 アルカディウス テオドシウス1世の息子。 父帝の死に際し帝国の東部を継承する。 ホノリウス テオドシウス1世の息子、アルカディウスの弟。 父帝の死に際し帝国の西部を継承する。 ガッラ グラティアヌスとヴァレンティニアヌス2世の妹。 グラティアヌスの死に動揺する、ヴァレンティニアヌス2世と共にテオドシウス1世に救援を要請。 ガッラ自身はテオドシウス1世の後妻となる。 ガッラ・プラキディアの母親。 皇 帝 名 皇 帝 評 政治 能力 軍事 能力 業績 アルカディウス帝 395〜408 テオドシウス1世の長子。 父帝の死後、帝国東部を継承し、皇帝として即位した。 アルカディウス治世の当初は父帝テオドシウス1世の就けた後見人ルフィヌスの傀儡だったが、ルフィヌスと宦官エウトロピウスの対立により、ルフィヌスはスティリコの意を受けたゴート人部将ガイナスに殺害された。 ルフィヌスの死後権勢を誇ったエウトロピウスも、東ゴート族の反乱の際に人望を失い、失脚した。 テオドシウス1世の死による、東西分裂は東西両帝国の絆を希薄にし、敵対国といえる程の関係になっていく。 西ゴート族がペロポネソス半島を略奪すると、スティリコ率いる東西ローマ軍が鎮圧にあたり、ほぼ事態を収拾しつつあった時に、アルカディウスはスティリコへの背信とも言える和議を西ゴート王アラリック1世と結び、西ゴート族を西ローマ領に追いやった。 皇后エウドクシアを寵愛し、エウトロピウスやコンスタンティノポリス司教ヨハンネス・クリュソストモスの失脚は、エウドクシアの陰謀とされる。 自身の死に際して息子テオドシウス(2世)の身を案じ、臣下を信頼できなかったアルカディウスはペルシア王ヤズィデガルド1世を後見人に選び後事を託した。 アルカディウス自身は穏やかな性格を持った人物だったが、あまりにも周囲に流され過ぎである。 ヤズィデガルド1世やアンテミウスのような信頼できる人物が、居なければ亡国の君主になっていたかもしれない。 C D B 同時代人 人 物 評 ルフィヌス 先帝テオドシウス1世がアルカディウスにつけた後見人。 収奪によって富を蓄え、庶民から憎まれた。 アルカディウスの外戚になる為、娘を嫁がせようとするが、エウトロピウスの妨害で失敗。 その後、スティリコと結託したガイナスに暗殺された。 ガイナス ゴート人の将軍。 スティリコと協力しルフィヌスを粛正する。 アルカディウスが反スティリコの姿勢を示すとこれに追従、スティリコ暗殺も実行に移すがそれには失敗する。 トリビギルドの反乱に呼応し、自らも挙兵。 敗戦逃亡中にウルディン率いるフン族に補足され戦死した。 エウトロピウス ローマ史上、宦官として、権勢を誇った初めての人物。 ルフィヌスがアルカディウスに娘を嫁がせようとすると、それを阻止しルフィヌスの追い落としに成功する。 しかし、東ゴート族の反乱に際し、自分が后に推薦したエウドクシアの嘆願により、処刑された。 ヨハンネス・クッリュソストモス コンスタンティノポリス司教。 エウトロピウスによって、高位を得たが、エウトロピウスの保護には失敗した。 その後、エウドクシアの陰謀でコンスタンティノポリスから追放された。 アンテミウス 僭帝プロコピウスの血縁とも言われるアルカディウスの家臣。 アルカディウスに重用され、皇帝の死後テオドシウス2世の補佐役となる。 エウドクシア アルカディウスの妻。 宦官エウトロピウスの推薦によりアルカディウスの皇后となった。 アルカディウスの寵愛を背景にエウトロピウス、ヨハンネス・クリュソストモスの失脚を演出したとされる。 アラリック1世 西ゴート王。 アタナリックの死後、西ゴート王に選出された。 テオドシウス1世の死後、帝国内での西ゴート族の移動を再開する。 ペロポネソス半島を略奪し、スティリコの率いる軍と対峙。 アルカディウスと交渉し、イリュウリクムへ退去することにより、スティリコの攻撃を中断させた。 スティリコ 西ローマ帝国の重臣。 ガイナスと協力しルフィヌスを暗殺する。 ペロポネソス半島で略奪をするアラリックを撃退する。 しかし、アラリックはコンスタンティノポリス宮廷との交渉で帝国の家臣の地位を得、除くことは出来なかった。 トリビギルド 東ゴート族を率い反乱を起こす。 ヒエロニムス アンティオキア司際。 ベツレヘムに神学校を建設し、聖書のラテン語訳を作成した。 皇 帝 名 皇 帝 評 政治 能力 軍事 能力 業績 ホノリウス帝 395〜423 テオドシウス1世の息子。 兄アルカディウス(東帝)と共に帝国を継承。 西方の皇帝となる。 治世初期は、父帝テオドシウス1世のつけた後見人であるヴァンダル族の部将スティリコの東奔西走の行動により、帝位を安定させた。 しかし、アラリック1世率いる西ゴート族がイタリア半島に侵入。 危険を避けるためメディオラム(現ミラノ)からラヴェンナに遷都した。 アラリック1世の軍勢に対抗する為に、スティリコがゲルマニア国境から軍を引き抜いた為、ガリアのローマ、フランク族の防衛戦を突破しヴァンダル族、スウェビ族、アラン族が侵入する。 これらの部族はまもなくイスパニアにまで到達した。 この危機的状態の中、西ゴート族の脅威に怯えるホノリウスは、帝国史上に残る愚行を侵す。 西ゴート王アラリック1世との内通を疑いスティリコを処刑したのである。 さらにローマ軍内でゲルマン人傭兵の虐殺も行われた。 これにより蛮族傭兵の反感を買い、傭兵達は西ゴート族に身を投じ、西ゴート族のローマ市占領事件を引き起こした。 アラリック1世はアフリカ遠征に失敗し、まもなく病死するが西ゴート族の存在はもはや無視出来なかった。 その後ホノリウスは、アラリック1世の後継者アタウルフとホノリウスの妹ガッラ・プラキディアの結婚を承認し、西ゴート族の南ガリア定住を許可した。 さらに、将軍コンスタンティウス(3世、後に正帝に昇進)の指揮下で西ゴート族を巧みに操り、反乱者コンスタンティヌス、ヴァンダル族、スウェビ族を攻撃するなど、蛮族を巧みに利用していた。 その一方、相次ぐ内乱によって軍事的空白地域となっていたブリタニアでのケルト人の反乱の鎮圧に失敗。 ローマ軍はブリタニアから完全に撤退した。 この、多事多難な時代に曲がりなりにも、天寿を全うしたのが信じられないほど、ギボンを初めとする歴史家のの評価は低い。 ホノリウスは子供は残しておらず、性的不能者であったと言われている。 E E C コンスタンティウス3世帝 421 ホノリウス配下の部将。 ガリアでの混乱を、ナルボンヌに定住した西ゴート族と協力し収拾することに尽力。 蛮族を巧みに操りガリア、イスパニアの秩序を回復した。 西ゴート王アタウルフの死後、帰国したホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアと結婚し、ホノリウスと同格の正帝(アウグストゥス)に昇進した。 両者の間の子は後のヴァレンティニアヌス3世である。 ホノリウスの有能な後継者(事実上の共治帝)だったが、あまりにも早すぎた死が惜しまれる。 あくまで個人的な見解だが、コンスタンティウス3世が存命であれば西帝国と蛮族の併存も可能だったのでは、と思える。 B B C 同時代人 人 物 評 スティリコ ヴァンダル族出身の将軍。 テオドシウス1世の姪のセレナと結婚し、ホノリウスの後見人となる。 アルカディウス帝の奸臣ルフィヌスを暗殺。 アフリカのギルドーの反乱を鎮圧。 メディオラムを包囲する、西ゴート王アラリック1世の軍を撃退する。 絶大な功績を誇ったが、敵も多くアルカディウス帝には命も狙われた。 最後は西ゴート族との内通を疑われ、ホノリウスの命令で惨殺された。 このスティリコの死を契機に、ローマ軍によって、蛮族傭兵が虐殺され、多数の傭兵が西ゴート族に身を投じ、ローマ占領事件を引き起こす原因となる。 アラリック1世 西ゴート王。 東帝国を追われ、西帝国内に侵入。 スティリコ死後の混乱を利用し、西帝国を脅迫するが、思うようにいかずローマ市を占領、略奪する。 その後アフリカ遠征を企図するも、中途で病死する。 アタウルフ 西ゴート王。 アラリック1世の死後王位を次ぐ。 ホノリウスの妹ガッラ・プラキディアと結婚し、ローマと和解し南仏に西ゴート族を定住させる。 アタウルフはガッラ・プラキディアとの間の子をローマ皇帝とし、帝国の実権を握ろうとしたが、アタウルフ自身の死によって挫折した。 アタウルフと史家オロティウスとの対話はゲルマン人のローマに対する意識をよく表している。 ワリア 西ゴート王。 アタウルフ暗殺後、西ゴート族をまとめ上げる。 アラリック1世以来の悲願だったアフリカ侵攻を目論むが、コンスタンティウスに阻まれる。 西ローマ帝国に協力し、スウェヴィ族、ヴァンダル族をイスパニアで敗退させた。 ガッラ・プラキディア ホノリウスの異母妹。 アラリック1世のローマ市占領の際、西ゴート族に連れ去られ、アタウルフと結婚する。 アタウルフは両者の子を皇位継承者とするつもりだったが、実現せず暗殺され、後を継いだワリアにローマ帰還を許された。 ローマ帰還後、将軍コンスタンティウス(3世)と再婚。 ヴァレンティニアヌス(3世)を産む。 コンスタンティウス3世が正帝即位後まもなく死去すると、ホノリウスに再婚を迫られ、それを拒否したガッラ・プラキディアは息子ヴァレンティニアヌス(3世)を伴いコンスタンティノポリスへ亡命した。 アッタルス アラリック1世の脅迫でローマ元老院から皇帝に指名された。 アラリック1世の死後はアタウルフに従っていたが、アタウルフはローマ政府と和解し追放され、ローマ軍に捕らえられた後、リパリ島に流刑された。 ギルドー アフリカ総督。 西帝国に反乱を起こし、東帝アルカディウスに保護を求めるが、スティリコの意を受けたマスケゼルの軍に破れ自害した。 コンスタンティヌス ブリタニアを拠点に帝位を僭称。 蛮族侵攻の混乱の中でガリア、イスパニアに進軍、アルルに宮殿を建設する。 一時はホノリウスに共治帝として承認された。 コンスタンス 上記コンスタンティヌスの子供。 父コンスタンティヌスより副帝(カエサル)の地位を与えられていたが、ゲロンティウスに処刑された。 ヨウィヌス ガリアで帝位を僭称。 西ゴート王アタウルフに破れ処刑される。 アルカディウス 東ローマ皇帝、ホノリウスの兄。 西ゴート族を領内から駆逐し、西帝国に追いやるが、ホノリウスへの援助は微々たるものだった。 皇 帝 名 皇 帝 評 政治 能力 軍事 能力 業績 テオドシウス2世 408〜450 アルカディウスの息子。 アルカディウスの死後、幼くして即位した。 即位当初は、ペルシア王ヤズィデガルド1世の保護の元、姉プルケリア、重臣アンテミウスの補佐を受けた。 先帝アルカディウスの時代に、領内の蛮族はほぼ駆逐していたが、フン族は絶えず国境付近を圧迫し、貢納を要求していた。 テオドシウス2世は融和政策として、これに応じ、40年に渡るテオドシウス2世の治世は基本的には平穏なものとなった。 東部国境では、ヤズィデガルド1世の跡を継いでペルシア王となったバーラム5世との紛争の結果、アルメニアをローマ・ペルシアで分割占領することになった。 西ローマ皇帝ホノリウスの死後、コンスタンティノポリスへ亡命していたガッラ・プラキディアの要請に応えて、ラヴェンナを強襲。 ガッラ・プラキディアの息子ヴァレンティニアヌス3世の即位を承認した。 さらにヴァンダル族のアフリカ侵攻には、2度に渡って援軍を送りもした。 もはや、西帝国はコンスタンティノポリス宮廷の足手まといに過ぎなくなったのである。 宗教的には、エフェソス公会議によりネストリウス派を異端とした。 また、現代にまで残る、テオドシウスの城壁をコンスタンティノープルに築いたのもこの皇帝の時代である。 テオドシウス2世は、後継者を指名することなく、落馬事故で死んだ。 父帝アルカディウス同様、穏やかな人物だったが、基本的に政治家としては不向きに思える。 しかし、数十年に渡る治世の中で、西帝国の困難な状況に比べ、さしたる混乱もなく無難に生涯を全うしたことは、評価に値する。 D D B 同時代人 人 物 評 ヤズィデガルド1世 ペルシア王。 西皇帝ホノリウスも東ローマ宮廷も信頼出来なかったアルカディウスからテオドシウス2世の後見人に指名される。 アルカディウスの信頼に応え、テオドシウス2世を自らの兵力で、陰謀から守ったとされるが、真否は判断しがたい。 ウルディン フン王。 東ゴート族と共に、ドナウ川を渡り東ローマ領内に侵入。 領内を荒らし回ったが、アンテミウスに撃退された。 アッティラ フン王。 東ゴート族、ゲビデ族を支配下に置き、東帝国に貢納を要求する。 プルケリア テオドシウス2世の姉。 弱体なテオドシウス2世に代わって実権を握った。 敬虔なキリスト教徒でネストリウス派、エウテュケス派を弾圧。 アンテミウス アルカディウス時代からの寵臣。 フン族を領外に駆逐し、幼年のテオドシウス2世を補佐した。 後の西ローマ皇帝アンテミウスの祖父。 バーラム5世 ペルシア王。 ヤズィガルド1世の死後王位に就く。 東帝国との紛争によりアルメニアを分割した。 アスパル ラヴェンナとコンスタンティノポリスのどちらの宮廷にも影響力を持った実力者。 ヴァンダル族来寇に際して、東ローマの援軍を指揮したが、ガイセリックと密約を結び、ヴァンダル王国の建国を黙認した。 ネストリウス コンスタンティノポリス司教。 イエス、マリアの神性を否定。 (詳しくは宗教関係の本を読んで下さい)いわゆるネストリウス派(景教)の創始者。 エフェソス公会議でネストリウスは異端を宣告されエジプトに追放された。 ガッラ・プラキディア テオドシウス2世の叔母。 息子ヴァレンティニアヌス(3世)の帝位獲得の為、東帝国の支援を要請する。 皇 帝 名 皇 帝 評 政治 能力 軍事 能力 業績 ヴァレンティニアヌス3世 425〜455 コンスタンティウス3世とガッラ・プラキディアの間の子。 ガッラ・プラキディアと共にコンスタンティノポリスに亡命していたが、ホノリウスの死を期に、東ローマ皇帝テオドシウス2世の援軍と共に帰国。 僭帝ヨハンネスを撃破し、皇帝に即位した。 もっとも、当時のヴァレンティニアヌス3世は幼少で、実権はガッラ・プラキディアの手にあった。 重臣アエティウスと、アフリカ総督ボニファティウスの対立を利用したガイセリックに率いられたヴァンダル族のアフリカ侵入の阻止に失敗。 アフリカはこの混乱の中でも、政治的に比較的安定した重要な穀倉地帯だった。 しかし、東ローマの援軍も甲斐なく、ヴァンダル族の独立政権の誕生を認めざるを得なくなった。 一方、ガリア、イスパニアではフン族の交友関係を利用したアエティウスの尽力で、一定の秩序を保っていた。 しかし、フン族がアッティラに率いられ、ガリアに侵入。 アエティウスは、西ゴート族、フランク族と協力し、辛うじてカタラウヌムの戦いで勝利を収めた。 続いて起こったフン族のイタリア侵入も中途で頓挫した為、帝国の命脈は辛うじて守られた。 アエティウスはこれらの功績で、ラヴェンナ宮廷内で並ぶもののない地位を得たが、逆にそれがヴァレンティニアヌス3世の生命を脅かすものと恐れられ、ヴァレンティニアヌス3世自らの手で惨殺された。 ヴァレンティニアヌス3世自身もその後アエティウス派の残党に暗殺され、西ローマ帝国におけるテオドシウス朝は断絶した。 アエティウスの死は、ガリア、イスパニアの蛮族の自立を促し、皇帝の権力の及ぶ範囲はイタリア半島のみとなった。 事実上の、西ローマ帝国最後の皇帝と言える。 D D E 同時代人 人 物 評 ヨハンネス ホノリウスの死後、帝位を称したが、テオドシウス2世の援軍を率いたガッラ・プラキディアに敗北、処刑された。 アエティウス 最後のローマ人と呼ばれる実力者。 若年時は西ゴート族、フン族の人質として過ごした。 故郷へ帰還しガッラ・プラキディアに仕えヴァレンティニアヌス3世を補佐する。 ライバルのボニファティウスの死後、実権を握りフン族との人脈を利用し、ガリア、イスパニアに秩序を取り戻す。 フン王アッティラのガリア侵攻の際は西ゴート族、フランク族と協力しカタラウヌムの戦いでの勝利によって、フン族の野望を挫いた。 西帝国における並ぶ物のない権力者となったが、ヴァレンティニアヌス3世から危険視され、皇帝自らの手によって惨殺された。 ガッラ・プラキディア ヴァレンティニアヌス3世の母親。 亡命先の東ローマ帝国の援助により、簒奪者ヨハンネスを撃破。 テオドシウス1世の子供の唯一の生き残りとして、アエティウスの後ろ盾となり、弱年のヴァレンティニアヌス3世を補佐した。 死後、カトリックの聖人に叙せられる。 ボニファティウス アフリカ総督。 ヴァンダル族のアフリカ侵攻を阻止できず、ヒッポ防戦中にローマに帰還する。 その後、アエティウスとの政争に破れ、無惨な死を遂げた。 ガイセリック ヴァンダル王。 ヴァンダル、アラン族を率いてジブラルタル海峡を渡ってアフリカに侵入。 ヒッポ、カルタゴを占領。 アスパル率いる、東帝国の援軍も撃破し、アフリカに完全なる独立勢力を築いた。 (ヴァンダル王国の成立) 重要な穀倉地帯であるアフリカを奪われたことによって、西ローマ帝国の命運は決まったとも言える。 アラリックはローマの名誉を奪ったが、ガイセリックはローマの生命を奪ったのである。 アッティラ フン王。 アエティウスとは人質時代から交友関係があったらしい。 当初は、ローマから貢納を受け取り、軍事的に協力をしていたが、東帝国から貢納を打ち切られ、西帝国に侵入した。 ガリアにおいて、ローマ・西ゴート連合軍にカタラウヌムの戦いで敗退。 ついで、イタリア半島に侵入するも、まもなく撤退した。 その後アッティラが変死すると、配下の東ゴート族、ゲビデ族が離反し、アッティラの息子達を撃破。 フン族の王国はあっけなく崩壊した。 テオドリック1世 西ゴート王。 フン族の侵入に対抗して、ローマのアエティウスと共に防戦。 カタラウヌムの戦いに勝利するが、自身は戦死した。 後の東ゴート王テオドリック1世とは、当然別人。 ホノリア ヴァレンティニアヌス3世の姉。 不貞の罪でコンスタンティノポリス宮廷に軟禁されていた。 経緯は不明だが、フン王アッティラとの婚姻を望み、ラヴェンナ宮廷に送り返される。 そのことを知ったアッティラは西ローマ帝国侵攻の口実として利用した。 アウグスティヌス ヒッポ司教。 メディオラム司教アンブロシウスの元でマニ教からキリスト教に改宗した。 ヴァンダル族の来寇に抵抗する。 ボニファティウス脱出後も、ヴァンダル族の攻撃を再三に渡って防ぐも、あえなく降伏する。 歴史的には「神の国」の作者としての方が有名か? レオ1世 ローマ教皇。 イタリアに侵入した、「神の鞭」フン王アッティラと会見し退却を要請し、受け入れられたとされる。 テオドシウス2世 東ローマ皇帝。 ガッラ・プラキディアを支援し、ヴァレンティニアヌス3世の即位を承認した。 マルキアヌス アスパルの副官として、アフリカに従軍。 ガイセリックの捕虜となるが、アスパルとの交渉で解放された。 テオドシウス2世の死後、姉プルケリアと結婚し帝位に就く。 フン族への貢納を打ち切り、フン族の西帝国侵攻を引き起こした。 [PR].

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テオドシウスの城壁を朝の散策 東日本大震災1年と152日

テオドシウス の 城壁

ぜひ見たくなり色々と巡った。 我ながらかなりマニアックだと思う。 ルメリ・ヒサリ トラムで終点のカバタスへでて、バスターミナルからバスでボスポラス海峡の要所(海峡が一番狭い場所)にあるルメリ・ヒサリに向かう。 しかし、バスターミナルなのに路線図がなくて、どの乗り場のどのバスにのればよいのか分からない。 なんとかそれっぽい行き先のバス停があったのでバスを待ち、やって来たバスに乗ってみる。 時間はたっぷりあるから間違えてもいいや、と段々とアバウトな自分になる。 しかし途中から海沿いを離れていくので若干は心配になる。 GoogleMapでバスの位置を確認してみると、大回りして目的地に向かいそう。 ファーティフ・スルタン・メフメット大橋(第二ボスポラス大橋)が見えてきた丘の上でバスは終点。 ルメリ・ヒサリ方面に向かうバスの中 GoogleMapでナビゲーション ルメリ・ヒサリは、遥か下のほうに見える。 GoogleMapを頼りに急な細い坂道を降りていく。 ヒサリの裏側に辿り着いたが、入口が分からない。 通りかかったおばさんに訪ねたら、英語が分からないとのジェスチャー。 近所の英語が分かるおじさんを紹介してくれた。 おじさんの英語とジェスチャーで何とか理解。 思っていた方向と違う方だったので聞いて良かった。 バス終点近くの公園から見えた大橋 地元の人しか通らない道を下る ヒサリはミュージアムになっていて、入口でセキュリティチェックがある。 X線装置ほど大袈裟なものはなく、バッグの中をチェックするというもの。 バッグ内のGPSロガーを見つけられ、これは何だ?と問われたが、無事に通過。 ルメリ・ヒサリ・ミュージアム入口 その昔、海峡を狙っていた大砲 中央、一番下にある塔 塔の中 高いところまで登れるが、手すりなどの安全柵は無く落ちたら怪我では済まない。 石畳が濡れているところもあって滑りそうで怖い。 ここから海峡を監視 2日前、船からみたヒサリ(左上の塔の真下まで登った) この日、観光客は殆どいなかった(いつもいないのかもしれない)が、小学校3、4年生位の一団が来ていて賑やかだった。 挨拶してきたので、英語で話しかけると英語が話せる生徒が何人かいた。 どこから来たのか?何の勉強しているのか?などお喋りをして別れた。 日本の小学生はなかなかここまで喋れないぞ。 帰りはボスポラス海峡沿いを走るバスで帰ろうと、バス停を目指して歩いているとかなり手前でバスが来てしまった。 しかし、手を振って乗りたい旨をアピールしたら止まってくれ、無事に乗ることができた。 ありがとう。 テオドシウスの城壁(エディルネカプ近く) カーリエ博物館を訪ねたあと、コンスタンティノープル北側を守っていたテオドシウスの城壁跡を見に行った。 5世紀の皇帝テオドシウス2世が作った 三重の城壁だ。 近づくと城壁に登っている人が見えたので、登ってみることに。 岩登りに近い、手足を使わないと登れないほぼ垂直の階段を登る。 城壁の上には手すりもなく、自己責任の世界。 ここでは三重の城壁の痕跡は見えなかった。 しかし、イスタンブルの街が360度見渡せる素晴らしい場所でした。 ほぼ垂直の階段は降りるときの方が怖かった。 城壁跡(城壁の内側) ほぼ垂直の石段を登る 垂直の石段を登ったところから見える塔 城壁の右側が昔のコンスタンティノープル市街 向こうに見えるのはミフリマー・スルタン・ジャーミィ 道を渡り、振り返る テオドシウスの城壁(トプカプ駅近く) 別の日、アジアサイドからメトロブスで旧市街側に戻った際、乗換のトプカプ駅近くにテオドシウスの城壁が見えたので近づいてみた。 このあたり、公園として整備されていて良い感じ。 天気も素晴らしい。 復元工事が行われていない感じの、石やレンガが崩れている場所から城壁の内側に入ってみると三重の城壁の痕跡らしきものが見えた。 トプカピ駅(城壁の外側)から城壁を眺める 左奥は復元されていて右手前は当時のまま? 復元修理されていない城壁 これが三重の城壁跡か? マルマラ海側の城壁跡 ブルーモスク裏手にあるアラスタバザールから坂道を下っていくとマルマラ海にでた。 海沿いの遊歩道をボスポラス海峡の入口に向かって歩く。 途中、海からの侵入を防ぐための城壁跡が見えてきた。 城壁跡に沿って歩くとその規模が感じられる。 修復されているところもあるが、崩れかけているところも多い。 大きいので今日では維持するのが大変だろう。 しかし、重機もない時代にはキチンと整備され、多数の兵が行き来していたのだ。 都市を守るために必死だった時代を感じると共に、桁外れにでかい中国の万里の長城はどれだけ大変なことだったのか。 ボスポラス海峡入口の灯台、右側はマルマラ海 マルマラ海からの侵入を防ぐ城壁跡 後ろに見えるのはトプカプ宮殿 マルマラ海とボスポラス海峡入口 色々廻ったが、地味なせいかいずれも観光客は殆どおらず、日本人にも全く会わなかった。 普段、歴史にはあまり興味はないが、コンスタンティノープルの陥落を読んだおかげで、戦乱の時代に思いを馳せることができて楽しむことができた。

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