バリー ボンズ。 真面目な話、バリーボンズってどれくらい凄いんや?

バリー・ボンズ 通算成績

バリー ボンズ

この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 バリー・ラマー・ボンズ( Barry Lamar Bonds, - )は、出身の元()・。 左投左打。 歴代1位記録となる通算762、シーズン73、. 863、. 609、1. 422、史上唯一のなど、そのキャリアを通じて数々の記録を残し、史上最も偉大な野球選手の一人とされる。 会社(BALCO)の薬物醜聞()の捜査に関連してと自身の薬物使用について嘘の証言をしたとしてで起訴され 、4月13日に司法妨害罪の有罪判決を受けた が、2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した。 MLBにおける通算及びシーズン本塁打記録保持者という実績を誇りながらも、上記の薬物使用疑惑における負のイメージの影響を受け、同じく薬物使用疑惑の付きまとう同様、有資格を得ながらもアメリカ野球殿堂入りは果たされていない。 父のも元選手で300本塁打300盗塁を達成しており、史上初の親子で達成した選手である。 MVP1回本塁打王4回のは従兄にあたる。 名付け親は本塁打王4回盗塁王4回の。 経歴 [ ] プロ入り前 [ ] で生まれ、で育った。 3人兄弟の長男(次男・リック、三男・ ())。 幼い頃は父が所属していたの本拠地に通い、試合をダグアウトから観ていたという。 の ()に入学し、の他、で優れた才能を発揮した。 野球においては、入学当初は新人チームに所属し、後に1980年から1982年までの3年間選抜チームのメンバーとして活躍した。 高校通算打率. 404、3年時には. 467を記録し、高校全米選抜チームに選ばれた。 のでジャイアンツから2巡目に指名を受けるが、球団側の契約金70,000ドルという提示に対し、75,000ドルを要求したため折り合いがつかず 、へ進学。 大学では、3年間で打率. 347・45本塁打・175打点を記録した。 1984年には打率. 360・30盗塁、1985年には打率. 368・23本塁打・66打点を記録し、同年の全米選抜に選出された。 大学オールスターには3年連続で選出された。 大学2年時にはにおいて7打数連続安打というの大学記録に並び、当時のチームは1996年にカレッジワールドシリーズにおける最高チームに選ばれた。 1986年に大学を卒業し、のを取得した。 また、ASU On Deck Circle MVPも受賞した。 また、大学リーグでありながら非常にに近いレベルとされている ののメンバーとしてプレイしたこともあった。 プロ入りとパイレーツ時代 [ ] でから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。 同年はで7月の月間MVPに選出される など打率. 299・13本塁打を記録。 はで打率. 311・7本塁打・出塁率. 435 の好成績を挙げ、メジャー昇格を果たす。 の戦に「1番・」として先発出場しメジャーデビュー。 16本塁打・48打点・36盗塁・65四球はいずれもリーグの新人選手で最高だったが、キャリアワーストの打率. 223・102三振に終わる。 2年目での慌ただしい昇格と、与えられたが敬愛するメイズと同じ24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。 の投票では6位に入る。 は希望通り背番号を24に変更。 開幕直前にの移籍に伴いへされる。 バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったが、試合では連携を見せ広い守備範囲をカバーした。 同年は25本塁打・59打点・32盗塁の成績。 は打率. 283・24本塁打を記録。 は打率. 248・19本塁打・58打点とやや不本意だったが、リーグ2位の14補殺を記録した。 シーズン終了後にドジャースの、との1対2の交換トレードの噂が流れるが球団は否定し 、結局トレードが行われることはなかった。 は前半戦で打率. 340・15本塁打・24盗塁の好成績 で、に初選出される。 後半戦は打率. 261ながら18本塁打・28盗塁を記録 し、シーズン通算で打率. 301・33本塁打・114打点、リーグ3位の52盗塁、リーグトップの長打率. 565の成績で史上2人目のを達成するなどチームの11年ぶりの地区優勝に大きく貢献。 とのでは打率. 167と振るわず 、チームは2勝4敗で敗退した。 の投票ではチームメイトのを抑えて初受賞し 、・も獲得した。 は打率. 292・25本塁打・116打点・107四球、リーグトップの出塁率. 410を記録し、チームは地区連覇を果たす。 とのでは打率. 148、本塁打・打点共に0とまたも振るわず 、チームは3勝4敗で敗退した。 MVPの投票ではを獲得したに次ぐ2位に入り 、2年連続でシルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を受賞した。 は打率. 311・34本塁打・103打点・39盗塁、いずれもリーグトップの109得点・127四球・出塁率. 456・長打率. 624・OPS. 080・32敬遠を記録して2度目の30本塁打30盗塁を達成し、チームは地区3連覇。 前年に続きブレーブスと対戦したでは第6戦でポストシーズン初本塁打を放ち 3勝3敗のタイに戻す。 最終第7戦は2-0とリードして9回裏を迎えたが、1点差に迫られた後の2死満塁から(後)に逆転サヨナラタイムリーを打たれて敗退。 打球を処理しサヨナラのホームインを阻止しようとレフトから本塁へ送球するが及ばず、試合終了後に呆然としている姿をテレビカメラに写されている。 2度目のMVPを受賞するが 、ボンズ以外にも等主力選手の年俸が高騰し、再契約は難しいとの見方が出ていた。 オフにとなった。 ジャイアンツ時代 [ ] 1992年にジャイアンツと総額・年俸共に当時史上最高額となる6年4,375万ドルの契約を結んだ。 翌年以降パイレーツはポストシーズンどころかまで20年間にわたり勝率5割にすら届かないシーズンが続き、ボンズの呪いではないかと言われていた。 1993年のボンズ 当初は球団のとなっていたメイズの背番号24を着用する予定でありメイズ自身も快諾していたものの、ファンや地元メディアの十分な賛同を得られなかったため 、ジャイアンツ時代の父ボビーと同じ25を着用する事となった。 はのドジャース戦でキャリアハイの7打点を記録。 336、いずれもリーグトップの46本塁打・123打点・出塁率. 458・長打率. 677・OPS1. 136の成績で、・の二冠を獲得。 チームは2位ブレーブスに最大10ゲーム差を付けるなど地区首位を独走していたが、から8連敗を喫して逆転を許す。 シーズン最終戦を前に同率で並ぶが、宿敵ドジャースに大敗して1ゲーム差で地区優勝を逃した。 2年連続3度目のMVPを受賞し、やなど往年の名選手と肩を並べた。 はのレッズ戦で自身初の1試合3本塁打を記録。 のでシーズンが打ち切られたが、打率. 312・37本塁打・81打点、リーグトップの74四球を記録 し、MVPの投票で4位に入った。 同年、と主演の映画に父ボビーと共に本人役で出演した。 はキャリア唯一の全試合出場を果たし、打率. 294・33本塁打・104打点・31盗塁、共にリーグトップの120四球・出塁率. 431・OPS1. 009を記録し、自身3度目の30本塁打30盗塁を達成。 はの戦でから通算300号本塁打を放ち 、メイズ、、父ボビーに次いで史上4人目となるを達成。 308・42本塁打・129打点・40盗塁、リーグ記録を更新する151四球の成績で、1988年のに次ぐ史上2人目のを達成し 、MVPの投票で5位に入る。 は打率. 291・40本塁打・101打点・37盗塁、4年連続リーグトップの145四球を記録して 父と並ぶ通算5回目の30本塁打30盗塁を達成し、チームの地区優勝に貢献。 とのでは打率. 250・本塁打0に終わり 、チームは3連敗で敗退した。 MVPの投票では前年と同じく5位に入った。 はの戦で、2点ビハインドの9回表2死満塁の場面で敬遠四球。 のマーリンズ戦で通算400号本塁打を放ち 、史上初のを達成した。 303・37本塁打・122打点・28盗塁を記録し、さらに通算8度目となるゴールドグラブ賞を受賞 し、MVP投票では8位に入った。 の時に例年より体重を増やした状態で登場。 同年は好調なスタートを切ったものの、故障で2ヶ月近く離脱した影響で102試合の出場に留まり、打率. 262・34本塁打・83打点と不本意な成績に終わる。 ピークは過ぎたと見られることもあったが、355打数で34本塁打を放っており、本塁打率は自己最高を記録している。 同年のの投票では外野手部門にノミネートされたものの、当時の現役野手で唯一選出されたに阻まれ、選出には至らなかった。 の創始者であるはボンズを「 90年代最高の野球選手」として評価しているが(2位にはが選ばれている。 )、これについて「 ボンズは私の見た中で最も正当な評価をされていない野球選手であろう。 グリフィーは凄い人気があるが、ボンズの方が断然に優れた選手である」と異論を唱え、ボンズについて当時の時点で史上16番目に偉大な野球選手としている。 また「 将来的に歴史上5指に入る偉大な野球選手となるだろう」とも言及している。 また同年はの選ぶ100人の偉大な野球選手のランキングにおいて当時の現役選手としては最高位となる34位に選ばれた。 は打率. 306・49本塁打・106打点・長打率. 688、リーグトップの117四球を記録し、チームの3年ぶりの地区優勝に貢献。 とのでは打率. 176とまたも振るわず 、チームは1勝3敗で敗退した。 MVP投票ではチームメイトのに次ぐ2位に入った。 はから6試合連続本塁打 、その間のドジャース戦で通算を達成。 から再び6試合連続本塁打 、のブレーブス戦、の戦で1試合3本塁打を記録。 のドジャース戦でから71号本塁打を放ち、の70本塁打を更新するメジャー記録を樹立。 328・73本塁打・137打点、共にのメジャー記録を更新する177四球・長打率. 863の成績を残す。 しかし打点王は取れなかった。 シーズン最終戦の日の朝、アメリカはを開始したが、テレビ局ニュース記者によれば、アメリカ国民は「誰もアフガンなんて興味もない。 ボンズのホームランに夢中」だった。 チームは地区優勝を逃したが、史上初となる4度目のMVPを受賞した。 守備につくボンズ は開幕から2試合で4本塁打・9打点を記録。 その後ものロッキーズ戦で3本塁打を放つなど好調を維持し、打率. 370・46本塁打・110打点、いずれもメジャー記録を更新する198四球・出塁率. 582・68敬遠四球を記録して自身初のを獲得し、チームの獲得の原動力となる。 ブレーブスとの、とのでは計4本塁打を放ち、チームは13年ぶりのリーグ優勝。 自身初出場となったとのでは打率. 471・4本塁打を記録する活躍を見せるが、シリーズ記録の13四球(内敬遠7)と勝負を避けられ、チームは3勝4敗で敗退し移転後初のワールドチャンピオンはならなかった。 は父ボビーの死去(詳しくは下の「父親との関係」を参照)もあり、若干パフォーマンスが落ちたものの、打率. 341、45本塁打、90打点を記録。 ケントが移籍したこともあり相変わらず勝負を避けられることは多く、61敬遠は前年に自身が記録したものに次いで歴代2位だった。 また6月23日のドジャース戦で通算500盗塁を達成したことで、同時に史上初の 「500-500」を記録した選手となった(2018年現在においても、ボンズ以外には400-400すら達成者はいない)。 前年に続けてチームはポストシーズンに進出したが、地区シリーズでは4試合で8四球(地区シリーズ記録)と歩かされ、敗退した。 は打率. 362、45本塁打、101打点を記録。 40歳で2度目の首位打者を獲得した。 また以前にも増して徹底的な攻めに遭い、120を含む232の四球を記録。 出塁率は6割を超え、OPSは1. 422を記録し、4つのMLB記録を更新。 には史上3人目となる通算700号本塁打を達成した。 は故障でシーズンの大半を欠場。 9月になってようやく復帰したが、わずか14試合の出場に終わる。 これはジャイアンツにとって大きな誤算となり、1996年以来9年ぶりの負け越しを記録することとなった。 には5月28日のロッキーズ戦で715号を放ち、ベーブ・ルースの記録を更新。 シーズン全体では130試合に出場し打率. 270、26本塁打、77打点に終わり、更なる体重増加により守備・走塁能力にも衰えは明らかであったが、115四球はリーグトップ、38敬遠、出塁率. 454はMLB全体トップを記録するなど、打撃技術は健在であることを示して見せた。 2007年、ロッキーズ戦でのボンズ は通算本塁打の記録更新が近付いていたため開幕から注目されていたが、メジャーデビューから22年目の8月4日、の戦での持つ755本のメジャー通算本塁打記録に並ぶ。 それから三日後の8月7日、の戦で投手から756本目となる本塁打をライトスタンドに打ち込み、MLB通算本塁打記録を塗り変えた。 ゲーム中にもかかわらず10分に及ぶセレモニーで新記録を祝い、自らマイクを握って挨拶を行い、「父さん、皆さん、ありがとう!」と締めくくった。 チームメイトとの不和が盛んに囁かれていたが、この時はベンチ総出で祝福されている。 記録更新から約一ヵ月後の9月15日、756号の記念ボールが大方の予想を大きく上回る75万2467ドル20セント(約8600万円)で落札された。 8月28日にオークションが始まった時点での金額は10万ドルだった。 なお、落札者が実施した投票の結果、この記念ボールは参考記録を示す「」マークを付けて野球殿堂に寄贈されることが決まった。 9月21日に、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針、薬物問題によるイメージダウンなどにより、は来期以降の契約を延長しない意思を伝え、シーズン中にも関わらず退団が決定した。 その頃怪我で出場を見送っていたボンズは、26日のパドレス戦にスタメン出場し、3打数無安打に終わった。 結果的にこの日が現役最後の出場となっている。 シーズン全体では打率. 276・28本塁打・66打点を記録。 132四球、43敬遠、出塁率. 480は2006年に続いてMLBトップの記録だった。 ジャイアンツ退団後 [ ] 代理人は「ボンズはプレーする用意がある」との声明を発表し、本人も「まだ引退したつもりは無い」と語ったが、公に獲得を表明する球団は出なかった。 所属球団のないまま迎えた2009年12月11日、最後まで復帰に尽力してきた代理人が「MLBはもう、彼にチャンスを与えないだろう。 私もこれ以上、彼の期待しているような仕事をする自信がない」とコメント。 公式の引退表明こそないものの、以降はプレーしない意思を示しており、形式的な手続きをしていないが当年をもって引退した状態となっている。 にはサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングトレーニングに特別コーチとして参加した。 12月4日、の監督が、ボンズの打撃コーチ就任を発表した。 10月3日、今シーズン限りでの打撃コーチ解任が発表された。 2006年のバリー・ボンズ キャリア初期から中期ともいえる1990年代においては、走攻守全てに際立った力を持つであった。 を5度、を3度、3割40本塁打40盗塁を1度記録している。 このうちは、、、そしてボンズの4名しか達成者がいない。 守備ではを8度獲得した。 とりわけ、1997年のでとの黄金バッテリーから盗塁を奪った事でボンズの高い走力を再確認したファンも多い [ ]。 とはともに、90年代最高の選手としてボンズを選出している(歴代の受賞選手は、、、、ウィリー・メイズ、、など)。 通算7度のMVPのうち、この90年代に3度を獲得した。 2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年からは. 500以上、. 700以上を 4年連続で記録した。 この二つの数字を足したものであるにおいても 1. 200以上を記録、2004年には出塁率. 609、長打率. 812を記録しOPSはMLB記録の 1. 422を記録。 四球記録は自身が3度更新、敬遠数は2度更新、出塁率も2度更新した。 年間100三振に達したのはキャリア一年目の102三振だけで、2001年に73本塁打を記録して以降は本塁打率が大きく上昇したが、2004年には三振よりも本塁打の方が多い(45本塁打41三振)という記録を残した。 無走者での敬遠が41度(うち無死無走者の場面での敬遠が5度 )、2ストライクを取られてから敬遠されたことが5度(うち0ボール2ストライクからフルカウントになり敬遠されたのが3度) ある。 また前述の通り、1998年5月28日の戦では、9回ツーアウト満塁から敬遠された。 打力を物語る話として、新人時代にこんな挿話がある。 パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受けたその週に、ピッツバーグに招かれ当時の本拠地、スリー・リバーススタジアムで打撃練習を行った。 その際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだところ、それを見ていたコーチの一人が、「そんなのは左打者ならみんなできる」と言った。 すると「じゃ、これを見てみな」とレフトへ柵越えを連発した。 野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、ぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」と言った。 チームメイトは違いが分からなかったがボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てた。 逸話 [ ] 性格・態度について [ ] 大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトも陰口を叩いていたという。 マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢いよくやってきて「俺はバリー・ボンズ。 ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。 当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。 それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。 それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな! 」と怒鳴りつけたという。 オットーの新人教育は厳しく、大事な試合でも守備で怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。 しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、シーズン終盤にはオットーと20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。 また、オットーによってクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという。 パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたバンスライク、更にジャイアンツ移籍当時の三塁手はベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある。 1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。 また、現在では、ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いているという。 この専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。 「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。 ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」、「の頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。 MLB史上最強の打者は俺だ」などの発言もある。 ジャイアンツにFA移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、各ピッチャーを指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。 「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった。 2001年4月17日に通算500号本塁打を達成した後日、パイレーツ時代のGMだったから祝福の電話を貰った時には「 あんたが早く俺をメジャーに引き上げてくれていたら、(500号に)もっと早く到達できたんだがね」と言い放ったという。 このようなことから、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしており、チーム内でも孤立しがちであるとされる。 しかし、全米の注目を一身に浴びる中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。 ボンズはマスコミ嫌いでもある。 不振に陥っている時のロッカールームでのインタビューでは記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほど。 本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。 1990・1992・1993年とMVPを獲得するパフォーマンスだったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている(この年MVPを獲得したのは打率. 319・本塁打22・打点86・盗塁10の。 ただし、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手として進出に貢献したことも評価されている)。 1998年のとのの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。 前述の名付け親でもあるを尊敬している。 パイレーツ時代までは彼と同じ 24をつけていた(の背番号24も同じ理由である)。 ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既にになっていた 24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。 2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。 時にユーモラスなジョークなどを言ったりもする一面もある。 友達想いの優しい一面もある。 2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズは戦で68号を放ってダイヤモンドを1周した。 本塁打を打った後天を指差すパフォーマンスで知られているが、この時はいつもよりとりわけ長く天を指差した。 その後ベンチに戻ると泣き出してしまった。 試合後の記者会見では「今日のホームランを亡くなったばかりの友人フランクリン・ブラッドリーに捧げる」と語った。 亡くなったブラッドリーは10年来を務めた親友でもあった。 前日の9月27日に"ありきたりの"外科手術を受けて、を引き起こして亡くなったというのだった。 "ありきたりの"手術と形容したが、ブラッドリーが受けた手術とは、肥満治療のための手術だった。 アメリカではの外科治療が大流行しているからこそ、"ありきたりの"手術と形容したのだが、手術費用は2万5000~3万ドルと言われている。 無保険者にとっては簡単に払える金額ではなく、体重400ポンド(約180kg)と肥満に苦しむ友が治療を受けられるようにと手術費用を援助していたのだった。 日本および日本人選手との交流 [ ] 日米野球で4度来日した他、長い選手生活においては日本や日本人選手と様々な形で関わりを持った。 母国では常に薬物疑惑を取り沙汰されるが、取材する側が日本人の場合はメディアに対しても気さくに応じることがある。 2002年のシーズンのみであったが、ジャイアンツの元チームメイトであるは、孤立しがちなボンズと会話する唯一の人物であった。 新庄は守備練習の時にグラブを手渡しするなどして、積極的にコミュニケーションをとっていたという。 ボンズも打撃練習中に自分が使うマスコットバットを新庄に貸したこともある。 翌2003年に新庄がに復帰した際や引退後にも、好意的なコメントを残している。 2007年のオールスターでは、同地区のライバル球団のクローザーでもあるとロッカーが隣で、斎藤にバットを一本プレゼントした。 斎藤は「バリーは今色々言われていて最初は身構えてしまったけれど、僕が話したバリーはとても気さくな人だった。 バットのスイートスポットをあともうちょっと広くしたいとか色々話してくれた。 」と述懐した。 また、とのツーショットも撮られた。 とは、松井がFAの行使に迷っていた2002年の日米野球で来日した際、「メジャーでも成功するさ。 日本と同じジャイアンツに来てほしい」などとエールを送った。 また松井とは同年の日米野球の試合前に1974年「. 」以来の「日米」が行なわれたが、緊張で本塁打が打てずにいた彼に「肩の力を抜け」とジェスチャーしたり、肩を揉み緊張をほぐす等で気さくに接している。 のには2006年のオフの自主トレの際には自身から声を掛けて色々打撃に関してアドバイスを送っている。 に対しても高い評価をしており、「の安打記録を抜くことに関しては賛否両論があるだろうが、自分はローズ以上の実力者と認めている」と絶賛していた。 は「筋肉増強剤の使用は悪いことだ」と前置きした上で「しかし、以前は禁止されていなかったのだし、第一、ステロイドを使用したからといってだれもがホームランを打てるようになるわけではない」と、ボンズの打撃技術を高く評価している。 Splash Hit [ ] ボンズの象徴とも言えるのライト場外の海(、ジャイアンツの名選手にちなんで ()とも呼ばれる)へ直接打ち込まれる本塁打は" Splash Hit"(スプラッシュヒット)と呼ばれる。 このスプラッシュヒットをボンズは歴代最多の35本を記録した(歴代2位タイの、でさえ通算7本に留まる)。 ボンズの打ち込む本塁打ボールを目当てにで待ち構えるも多く(特にシーズン本塁打記録など歴史に残る本塁打が迫ってくるとまた増える)、また時にはにといういでたちで待ちかまえるファンもいる。 ボンズが今まで数多く記録しているため、一見簡単そうに見えるが全くそうではない。 実際スプラッシュヒットからボンズが記録した分を除くと、ビジターの選手が打った分を含めても、1年あたり約3本しか出ていない。 飛距離そのものとしては370(約113)ほどで可能だが、ライトは25フィート(約7. 6メートル)と高く、常に強いも吹いているため、MLBで最も左打者に不利な球場とも言われている。 バット・使用道具 [ ] バッティングを行うボンズ 2007年より社製のバットを使用。 それまではサムバットを使用していた。 スプリングトレーニングでの試打でSSKのバットを気に入ったボンズは、担当者に自分の使っているバットを手渡し「これと同じように作ってほしい」とその場で3ダースを注文したという。 このバットは富山県のSSKバット協力工場で生産され、50年以上のバット作りの経験を持ち、また社長でもある本居和義らのバット職人によって行われる。 ちなみに長さ86. 6センチ、重量平均915. 0グラム、材質はメイプルである。 大抵のメジャーリーガーは使用するバットにはそれほど神経質にならないといわれているが、ボンズは乾燥度を気にかけ、常に打球音で弾き具合を確認するほどこだわりを持っている。 また、2007年からバットの乾燥度を保つジュラルミンケースも使っている。 また、バットのグリップ部分にテーピングをクロスしてグルグル巻きにしているのが好きらしく、しばしば試合中などにバットに巻いてあるのを確認できる。 バッティンググラブはfranklin社製、ホームでは手の甲がオレンジ、ビジターでは甲がグレーのものを使用。 グラブはwillson社製の黒、ネット部分はグレーのものである。 打席では肘あてを付けている。 足には何も付けていない。 スパイク及びリストバンドは社製を使用。 父親との関係 [ ] バリー・ボンズ(この項では以下、便宜上バリーと表記)の父親は先述の通り'70年代に活躍したメジャーリーガーのであり、バリーは「やるからには、その道のナンバー1になれ」と言われ育てられたという。 また、ボビーはとも交流が深いチームメイトであったという経緯からバリーとメイズは出会うこととなる。 しかし、バリーは幼少期からボビーを非常に慕っていたが、野球で多忙だったボビーは家を空けることが多く、一緒に遊んでもらった記憶がほとんど無いとバリーは語っている。 というのも、バリーが産まれたときボビーはまだ18歳であったため、バリーの幼少期は後に24歳でメジャーデビューするまで必死にマイナーでプレーしていた時期であった。 後にボビーはにかかり、酒が原因で様々なトラブルを起こしてしまい、次第にバリーとボビーは疎遠となっていった。 後にバリーが高校・大学と野球で素晴らしい成績を残してもボビーは振り向いてくれなかったという。 だが、その後ボビーはケアを受けたことでアルコール依存症を克服。 1993年、バリーがサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、ボビーがジャイアンツのバッティングコーチに就任したのを機に2人は和解することとなった。 その後、2人は共に野球人生を歩むことになるが、バリーは先述の教えである「その道のナンバー1になる」つまり、ワールドチャンピオンになることが1度もできずにいた。 そんな中、2002年にボビーはとを発症し、余命幾許も無い状態となる。 ボビーの命のあるうちにを手にしたいという想いから、2002年バリーは必死にプレーし、を受賞する程の活躍をする。 しかし、ジャイアンツはこの年ワールドシリーズには進むもののに敗れ、ワールドチャンピオンとはならなかった。 2003年、バリーは試合以外の時間はボビーの看病をするという生活を続けた。 この年もバリーは必死でプレーし、6月23日史上初の「500-500」を達成。 8月20日にはボビーがジャイアンツの試合を観戦しに来て、この日もバリーは本塁打を打っている。 しかし3日後の8月23日、ボビーは永眠。 バリーはその後1週間バットも握れないほど落ち込んだという。 だが、ボビーの死から1週間後の復帰戦ではから本塁打を打っている。 この年、MVPを獲得したバリーは「このMVPを父に捧げる。 父には本当に感謝している」と涙ながらに語った。 2007年8月7日、756号本塁打を放ち、その後10分間の新記録を祝うセレモニーで、バリーはマイクを握り挨拶を行った。 自身の家族や観客やチームメイトに感謝の言葉を告げ、最後には「 My Dad... Thank you for everything! (父さん... ありがとう、すべてに感謝している)」と締めくくった。 2であったのが1999年から2007年までは9. 2と急上昇している)ことなどから、筋肉増強剤のや(HGH)等のを使用しているとの噂が絶えなかった。 シーズン73本塁打の新記録を作った2001年の時点では、薬物の問題は表面化していなかったが、ボンズの体格が劇的に変化したことは当時からマスコミでも度々取り上げられていた。 プロ入り当時は体重84キロで、98年までは86キロと、体格に大きな変化はなかった。 それがドーピングを始めたと噂される99年から毎年増加し、93キロ・95キロ・103キロと増えつづけ、そして2007年の大リーグ公式サイトの掲載においては109キロにまでなっている。 ボンズが薬物に手をだすきっかけとなったのは、1998年のマグワイアとソーサの本塁打量産対決であるというのが通説である。 1998年、従来の記録であったのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。 その一方でこの年に打率. 人一倍プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨てて本塁打を打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。 1998年のオフ、友人のと食事をした際に、ボンズはそのように語り、ステロイドの使用を開始したことを示唆したとグリフィーが証言している。 こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。 体格が巨大化する前のボンズ 最初にそれを公衆の面前に晒したのは1999年の春季キャンプでのことで、前年のシーズン終了時とは見るからに違う体格をしていたボンズに対して地元記者が質問すると、「いつもと同じことをしただけだが、やり始めたのが少し早かった」とだけ答えている。 投与に関ったとされるのは米国の栄養補助食品会社(BALCO: Bay Area Laboratory Co-operative)で、ボンズは1998年半ばから幼馴染のをウエイトトレーニング・コーチとして雇い入れていた。 当時すでにアンダーソンは後に告発されるバルコ社の創設者と深いつながりを持っており、陸上競技などでは禁止されていた化学薬品をボンズに与えていたという。 詳細は「」を参照 2006年3月23日に紙記者2人によるボンズの薬物使用に関する『』が出版された。 同著では、ボンズは1999年から少なくとも5年以上にわたり、(THG)、クリーム(クリアとセットで使用)、HGH、、、、、、、と様々な薬物を使い続けたと述べられている。 2007年1月11日、ボンズが2006年度の検査で禁止薬物の(グリーニー)に陽性反応を示していたことが報道された。 2003年にバルコ社の禁止薬物の販売に関する大陪審で禁止薬物を故意に使用したことはないという証言について、アメリカ連邦大陪審は2007年11月15日にで起訴した。 ボンズと同様にバルコ社からドーピング投与を受けた疑惑をもたれていた女子陸上競技選手もドーピングしていたことを既に認めており、金メダルを返還して引退している。 なお偽証罪の直接の訴因は「 薬物を使用したこと」ではなく、「 薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」ことである。 同年12月13日に発表されたに実名で取り上げられた。 ボンズは報告書作成時の調査に関連した聴取を拒否した事に加え、禁止薬物の使用の疑いについて書かれた質問に対する応答を拒否したとされている。 ボンズの裁判は2011年3月21日から始まった。 サンフランシスコ連邦地裁の陪審は2011年4月13日、訴えられた罪状4件のうち、1件のみ有罪とする評決を下し、他の3件の偽証罪は陪審不一致で裁判不成立となった。 薬物使用が意図的なものだったかどうかは明らかにならなかった。 元専属トレーナーのアンダーソンは黙秘を貫き、ボンズが「そうと知って使ったことはない」と証言したので、その容疑を立証しなければならなくなり、困難を極めた。 裁判中に証言した1994年から2003年にかけて交際していた女性によると、1999年の肘の故障はステロイドの使用を開始したことによる急激な筋肉増強が肘に負担を与えたことが原因だと語ったという。 2011年12月15日に2年間の保護観察処分と30日間の自宅謹慎が言い渡された。 また、4000(約30万円)の罰金も科された。 2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した。 疑惑に対する周囲の反応 [ ] 薬物疑惑が強まり、ルース、アーロンの通算本塁打数に迫るにつれて、ファンや米メディアの反応も厳しくなり、敵地の球場では、別扱いの参考記録を表す「*」マークやドーピング注射器が描かれたボードを掲げてボンズを野次る観客が多数出現するようになった。 ボンズの守っているレフトに注射器が投げ込まれたこともある。 「ベーブ・ルースはホットドッグとビールでやってのけた。 ハンク・アーロンは上品にやってのけた。 (暗に薬物を指して)お前はどうやってやったんだ?("Babe Ruth did it on hot dogs and beer. Hank Aaron did it with class. How did you do it? ")」と揶揄されたりもした。 一方で、選手たちの反応はおおむね正反対である。 ここにその現役選手たちのコメントを一部列挙する。 「彼は凄く簡単そうにボールを打っているけど、実際は難しいんだ。 どうやったらあれだけ安定したスイングを出来るのか俺には分からない。 ステロイドを使った選手は他にもいるけど、ボンズに匹敵する奴は誰もいない」「ステロイドを使っている他の選手のスイングに比べたら、ボンズがステロイドのおかげだけでホームランを打っているとは思えない。 「度重なる薬物検査の下、人間離れしたスウィングで僕らを驚かせるんだから、彼は本物だよ。 素晴らしい動体視力とタイミングでボールを捉え続ける。 「皆と同じようにステロイドの使用については疑っている。 だが、それと彼の打者としての偉大さは別さ」「打てる球が1試合に2球くらいしかないのにそれを本塁打にする。 そもそも、ステロイドの使用を開始した1999年より前の時点でボンズは既に殿堂入りに値する成績を残しており、元々ずば抜けた実力を持っていた選手であることにも留意すべきである。 また、2007年シーズンにおいても当時メッツのが禁止薬物での50試合の出場停止処分を受けているように投手の禁止薬物使用も相当数に上っていることや、ボンズが薬物を摂取していたとされる2000年前後はまだ筋肉増強剤はMLBの禁止薬物に指定されてはおらず、使用の是非とは別にボンズをはじめとしたMLBの選手たちは、その当時、筋肉増強剤を使用することにルール上は何も問題はなかったこともまた見逃せない事実である。 薬物使用が確実視される中での記録達成とあって、周囲の反応が注目されたが、アーロンの記録を破った試合の視聴率はわずか1. ちなみに、ハンク・アーロンがベーブルースの記録を破ったときにNBCが放送した試合の視聴率は、22. のも球界の最高権力者という立場上、明言はしていないがアーロン同様その場にいたくないとの気持ちは隠しようがないといった感じで対応に戸惑っていた。 言葉では「記録更新の瞬間にできる限り立ち会うつもりでいる」「試合への尊敬、記録の大きさ、この国ではすべての市民が有罪とされるまでは潔白であることから、私は彼が記録を更新する可能性があるかを見るために次の試合に立ち会う。 記録がタイになった時点で追加声明を発表する」との声明文を発表していたが、否定的なスタンスを取り続けていた。 755号を放った試合もセリグは観戦していたが、他の観客と違い拍手もせずポケットに手を突っ込んだままの姿で、神妙な面持ちだった。 756号を放った試合においては結局セリグはと面会するという名目で球場には姿を見せず、代理を送っていた。 また、この疑惑が強くなる中、他の選手の記録の正当性にも疑惑が示され、実はシーズン本塁打記録はの61本のままではないかという議論も起きた。 2005年には議会がメジャーリーグ機構にマリスの記録が正当であると主張する事態となった。 殿堂入り論争 [ ] 引退後5シーズンが経過し、に入り資格を得た。 しかし、ステロイド使用が確定しているボンズに対して、殿堂入りを認めるかどうかの議論が投票前から盛んに行われた。 これにより初年度の殿堂入りは絶望的な状況となった。 反対派の中にも今後考えが変わる可能性はあると回答した記者も多く、論争の決着が付いたとは言えない状況である。 2013年1月9日、殿堂入りの投票結果が発表されたが、事前の調査よりも少ない36. 殿堂入りを認める主張としては「ドーピングを始める前から、長期に渡って素晴らしい成績を残していた」「当時はステロイドが禁止されておらず、ドーピングが蔓延しており、誰が白で誰が黒かを明確に特定することは不可能」「既に殿堂入りした選手や、殿堂入り候補の選手の中にも、発覚していないだけで薬物を使用していた選手は確実に存在する」「純粋に数字だけで判断すべき」「野球殿堂は負の歴史も受け入れるべき」などがある。 一方で、殿堂入り反対派は「どのような事情があろうとも、薬物使用が判明した選手の殿堂入りは認めるべきでない」という主張を展開している。 また、が設けた殿堂入りの選考基準「記録、能力、誠実さ、スポーツマンシップ、人格、チームへの貢献(the player's record, playing ability, integrity, sportsmanship, character and contributions to the team[s] on which the player played)」のうち誠実さ、スポーツマンシップ、人格の3つを満たしていないと指摘される。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 113 484 413 72 92 26 3 16 172 48 36 7 2 2 65 2 2 102 4. 223. 330. 416. 746 150 611 551 99 144 34 9 25 271 59 32 10 0 3 54 3 3 88 4. 261. 329. 492. 821 144 614 538 97 152 30 5 24 264 58 17 11 0 2 72 14 2 82 3. 283. 368. 491. 859 159 679 580 96 144 34 6 19 247 58 32 10 1 4 93 22 1 93 9. 248. 351. 426. 777 151 621 519 104 156 32 3 33 293 114 52 13 0 6 93 15 3 83 8. 301. 406. 565. 971 153 634 510 95 149 28 5 25 262 116 43 13 0 13 107 25 4 73 8. 292. 410. 514. 924 140 612 473 109 147 36 5 34 295 103 39 8 0 7 127 32 5 69 9. 311. 456. 624 1. 080 159 674 539 129 181 38 4 46 365 123 29 12 0 7 126 43 2 79 11. 336. 458. 677 1. 136 112 474 391 89 122 18 1 37 253 81 29 9 0 3 74 18 6 43 3. 312. 426. 647 1. 073 144 635 506 109 149 30 7 33 292 104 31 10 0 4 120 22 5 83 12. 294. 431. 577 1. 008 158 675 517 122 159 27 3 42 318 129 40 7 0 6 151 30 1 76 11. 308. 461. 615 1. 076 159 690 532 123 155 26 5 40 311 101 37 8 0 5 145 34 8 87 13. 291. 446. 585 1. 031 156 697 552 120 167 44 7 37 336 122 28 12 1 6 130 29 8 92 15. 303. 438. 609 1. 047 102 434 355 91 93 20 2 34 219 83 15 2 0 3 73 9 3 62 6. 262. 389. 617 1. 006 143 607 480 129 147 28 4 49 330 106 11 3 0 7 117 22 3 77 6. 306. 440. 688 1. 128 153 664 476 129 156 32 2 73 411 137 13 3 0 2 177 35 9 93 5. 328. 515. 863 1. 378 143 612 403 117 149 31 2 46 322 110 9 2 0 2 198 68 9 47 4. 370. 582. 799 1. 381 130 550 390 111 133 22 1 45 292 90 7 0 0 2 148 61 10 58 7. 341. 529. 749 1. 278 147 617 373 129 135 27 3 45 303 101 6 1 0 3 232 120 9 41 5. 362. 609. 812 1. 422 14 52 42 8 12 1 0 5 28 10 0 0 0 1 9 3 0 6 0. 286. 404. 667 1. 071 130 493 367 74 99 23 0 26 200 77 3 0 0 1 115 38 10 51 9. 270. 454. 545. 999 126 477 340 75 94 14 0 28 192 66 5 0 0 2 132 43 3 54 13. 276. 480. 565 1. 045 :22年 2986 12606 9847 2227 2935 601 77 762 5976 1996 514 141 4 91 2558 688 106 1539 165. 298. 444. 607 1. 051• 各年度の 太字はリーグ最高、 赤太字はメジャー歴代最高• 2006年と2007年の出塁率は規定打席に届いていないが、残りの打席全てが凡退と仮定してもリーグ1位になるためメジャーリーグ特別規定によりリーグ最高 タイトル [ ]• 2回:2002年、2004年• 2回:1993年、2001年• 1回:1993年 表彰 [ ]• 7回:1990年、1992年 - 1993年、2001年 - 2004年• 12回:1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、2000年 - 2004年• 8回:1990年 - 1994年、1996年 - 1998年• 3回:2001年 - 2002年、2004年• :2004年• 13回:1990年7月、1991年7月、1992年4月・9月、1993年4月、1996年4月、1997年7月、2001年5月・9月、2002年8月、2003年7月、2004年4月・8月• ナ・リーグ週間MVP 13回• Player of the Year 2回:2001年、2004年• NL Outstanding Player 4回:1993年、2001年 - 2002年、2004年• NL Comeback Player 1回:1992年• The Sporting News• Major League Players of the Year 3回:1990年、2001年、2004年• NL Players of the Year 2回:1990年 - 1991年• NL All-Star Teams12回:1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、2000年 - 2004年• Player of the Decade:1990年代• All-Decade Team:2000年代• Baseball America• MLB Player of the Year 3回:2001年、2003年 - 2004年• First-Team Major League All-Star OF 7回:1993年 - 1994年、2000年 - 2004年• Baseball Digest• Player of the Year 3回:1993年、2001年 - 2002年• All-Decade Team:2000年代• All-Decade Team:2000年代• Yahoo! Sports• All-Decade team:2000年代• Athlete of the Year 1回:2001年• Player of the Year 2回:1992年 - 1993年• All-Star Award 5回:1990年 - 1993年、2000年• :2006年 記録 [ ]• 選出 13回:1990年、1992年 - 1998年、2000年 - 2004年、2007年 保持記録 [ ]• 通算本塁打数 762:2013年終了時点(歴代1位、に認定 )。 シーズン本塁打数 73:2001年• 異なる投手からホームラン 449• 40歳以上でのホームラン 74• 43歳でのホームラン 28• シーズン30本塁打以上 13年連続:1992年 - 2004年• シーズン長打率. 863:2001年• ワールドシリーズでの長打率 1. 294, 2002• シーズン長打率. 600以上 8年連続, 1998—2005• シーズン出塁率. 609:2004年• シーズン四球数 232:2004年• シーズン敬遠数 120:2004年• 連続四球数 18試合• MVP受賞 7回:1990, 1992—93, 2001—04• MVP受賞 4年連続 2001—04• ナ・リーグ月間MVP選出 13回• 最年長首位打者初獲得 38歳 2002• シーズン 1. 422:2004年• 4年連続で出塁率5割以上:2001年 - 2004年• 4年連続で長打率7割以上:2001年 - 2004年• 40-40(40本塁打40盗塁):1996年(史上4人)• 史上初となる 500-500(500本塁打500盗塁)を達成• 40歳での、獲得はともにメジャー最高齢記録:2004年• 通算四球数 2558• 通算敬遠数 688 合同記録 [ ]• 連続四球:7• 連続出塁:15• (30本塁打30盗塁) 5回:1990年、1992年、1995年 - 1997年(父と並び大リーグ最多記録)• 同一ポストシーズン本塁打数 8:2002年 背番号 [ ]• 7 1986年• 24 1987年 - 1992年• 25 1993年 - 2007年, 2016年 脚注 [ ] []• Johnston, Joey 2004年9月. 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真面目な話、バリーボンズってどれくらい凄いんや?

バリー ボンズ

この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 バリー・ラマー・ボンズ( Barry Lamar Bonds, - )は、出身の元()・。 左投左打。 歴代1位記録となる通算762、シーズン73、. 863、. 609、1. 422、史上唯一のなど、そのキャリアを通じて数々の記録を残し、史上最も偉大な野球選手の一人とされる。 会社(BALCO)の薬物醜聞()の捜査に関連してと自身の薬物使用について嘘の証言をしたとしてで起訴され 、4月13日に司法妨害罪の有罪判決を受けた が、2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した。 MLBにおける通算及びシーズン本塁打記録保持者という実績を誇りながらも、上記の薬物使用疑惑における負のイメージの影響を受け、同じく薬物使用疑惑の付きまとう同様、有資格を得ながらもアメリカ野球殿堂入りは果たされていない。 父のも元選手で300本塁打300盗塁を達成しており、史上初の親子で達成した選手である。 MVP1回本塁打王4回のは従兄にあたる。 名付け親は本塁打王4回盗塁王4回の。 経歴 [ ] プロ入り前 [ ] で生まれ、で育った。 3人兄弟の長男(次男・リック、三男・ ())。 幼い頃は父が所属していたの本拠地に通い、試合をダグアウトから観ていたという。 の ()に入学し、の他、で優れた才能を発揮した。 野球においては、入学当初は新人チームに所属し、後に1980年から1982年までの3年間選抜チームのメンバーとして活躍した。 高校通算打率. 404、3年時には. 467を記録し、高校全米選抜チームに選ばれた。 のでジャイアンツから2巡目に指名を受けるが、球団側の契約金70,000ドルという提示に対し、75,000ドルを要求したため折り合いがつかず 、へ進学。 大学では、3年間で打率. 347・45本塁打・175打点を記録した。 1984年には打率. 360・30盗塁、1985年には打率. 368・23本塁打・66打点を記録し、同年の全米選抜に選出された。 大学オールスターには3年連続で選出された。 大学2年時にはにおいて7打数連続安打というの大学記録に並び、当時のチームは1996年にカレッジワールドシリーズにおける最高チームに選ばれた。 1986年に大学を卒業し、のを取得した。 また、ASU On Deck Circle MVPも受賞した。 また、大学リーグでありながら非常にに近いレベルとされている ののメンバーとしてプレイしたこともあった。 プロ入りとパイレーツ時代 [ ] でから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。 同年はで7月の月間MVPに選出される など打率. 299・13本塁打を記録。 はで打率. 311・7本塁打・出塁率. 435 の好成績を挙げ、メジャー昇格を果たす。 の戦に「1番・」として先発出場しメジャーデビュー。 16本塁打・48打点・36盗塁・65四球はいずれもリーグの新人選手で最高だったが、キャリアワーストの打率. 223・102三振に終わる。 2年目での慌ただしい昇格と、与えられたが敬愛するメイズと同じ24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。 の投票では6位に入る。 は希望通り背番号を24に変更。 開幕直前にの移籍に伴いへされる。 バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったが、試合では連携を見せ広い守備範囲をカバーした。 同年は25本塁打・59打点・32盗塁の成績。 は打率. 283・24本塁打を記録。 は打率. 248・19本塁打・58打点とやや不本意だったが、リーグ2位の14補殺を記録した。 シーズン終了後にドジャースの、との1対2の交換トレードの噂が流れるが球団は否定し 、結局トレードが行われることはなかった。 は前半戦で打率. 340・15本塁打・24盗塁の好成績 で、に初選出される。 後半戦は打率. 261ながら18本塁打・28盗塁を記録 し、シーズン通算で打率. 301・33本塁打・114打点、リーグ3位の52盗塁、リーグトップの長打率. 565の成績で史上2人目のを達成するなどチームの11年ぶりの地区優勝に大きく貢献。 とのでは打率. 167と振るわず 、チームは2勝4敗で敗退した。 の投票ではチームメイトのを抑えて初受賞し 、・も獲得した。 は打率. 292・25本塁打・116打点・107四球、リーグトップの出塁率. 410を記録し、チームは地区連覇を果たす。 とのでは打率. 148、本塁打・打点共に0とまたも振るわず 、チームは3勝4敗で敗退した。 MVPの投票ではを獲得したに次ぐ2位に入り 、2年連続でシルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を受賞した。 は打率. 311・34本塁打・103打点・39盗塁、いずれもリーグトップの109得点・127四球・出塁率. 456・長打率. 624・OPS. 080・32敬遠を記録して2度目の30本塁打30盗塁を達成し、チームは地区3連覇。 前年に続きブレーブスと対戦したでは第6戦でポストシーズン初本塁打を放ち 3勝3敗のタイに戻す。 最終第7戦は2-0とリードして9回裏を迎えたが、1点差に迫られた後の2死満塁から(後)に逆転サヨナラタイムリーを打たれて敗退。 打球を処理しサヨナラのホームインを阻止しようとレフトから本塁へ送球するが及ばず、試合終了後に呆然としている姿をテレビカメラに写されている。 2度目のMVPを受賞するが 、ボンズ以外にも等主力選手の年俸が高騰し、再契約は難しいとの見方が出ていた。 オフにとなった。 ジャイアンツ時代 [ ] 1992年にジャイアンツと総額・年俸共に当時史上最高額となる6年4,375万ドルの契約を結んだ。 翌年以降パイレーツはポストシーズンどころかまで20年間にわたり勝率5割にすら届かないシーズンが続き、ボンズの呪いではないかと言われていた。 1993年のボンズ 当初は球団のとなっていたメイズの背番号24を着用する予定でありメイズ自身も快諾していたものの、ファンや地元メディアの十分な賛同を得られなかったため 、ジャイアンツ時代の父ボビーと同じ25を着用する事となった。 はのドジャース戦でキャリアハイの7打点を記録。 336、いずれもリーグトップの46本塁打・123打点・出塁率. 458・長打率. 677・OPS1. 136の成績で、・の二冠を獲得。 チームは2位ブレーブスに最大10ゲーム差を付けるなど地区首位を独走していたが、から8連敗を喫して逆転を許す。 シーズン最終戦を前に同率で並ぶが、宿敵ドジャースに大敗して1ゲーム差で地区優勝を逃した。 2年連続3度目のMVPを受賞し、やなど往年の名選手と肩を並べた。 はのレッズ戦で自身初の1試合3本塁打を記録。 のでシーズンが打ち切られたが、打率. 312・37本塁打・81打点、リーグトップの74四球を記録 し、MVPの投票で4位に入った。 同年、と主演の映画に父ボビーと共に本人役で出演した。 はキャリア唯一の全試合出場を果たし、打率. 294・33本塁打・104打点・31盗塁、共にリーグトップの120四球・出塁率. 431・OPS1. 009を記録し、自身3度目の30本塁打30盗塁を達成。 はの戦でから通算300号本塁打を放ち 、メイズ、、父ボビーに次いで史上4人目となるを達成。 308・42本塁打・129打点・40盗塁、リーグ記録を更新する151四球の成績で、1988年のに次ぐ史上2人目のを達成し 、MVPの投票で5位に入る。 は打率. 291・40本塁打・101打点・37盗塁、4年連続リーグトップの145四球を記録して 父と並ぶ通算5回目の30本塁打30盗塁を達成し、チームの地区優勝に貢献。 とのでは打率. 250・本塁打0に終わり 、チームは3連敗で敗退した。 MVPの投票では前年と同じく5位に入った。 はの戦で、2点ビハインドの9回表2死満塁の場面で敬遠四球。 のマーリンズ戦で通算400号本塁打を放ち 、史上初のを達成した。 303・37本塁打・122打点・28盗塁を記録し、さらに通算8度目となるゴールドグラブ賞を受賞 し、MVP投票では8位に入った。 の時に例年より体重を増やした状態で登場。 同年は好調なスタートを切ったものの、故障で2ヶ月近く離脱した影響で102試合の出場に留まり、打率. 262・34本塁打・83打点と不本意な成績に終わる。 ピークは過ぎたと見られることもあったが、355打数で34本塁打を放っており、本塁打率は自己最高を記録している。 同年のの投票では外野手部門にノミネートされたものの、当時の現役野手で唯一選出されたに阻まれ、選出には至らなかった。 の創始者であるはボンズを「 90年代最高の野球選手」として評価しているが(2位にはが選ばれている。 )、これについて「 ボンズは私の見た中で最も正当な評価をされていない野球選手であろう。 グリフィーは凄い人気があるが、ボンズの方が断然に優れた選手である」と異論を唱え、ボンズについて当時の時点で史上16番目に偉大な野球選手としている。 また「 将来的に歴史上5指に入る偉大な野球選手となるだろう」とも言及している。 また同年はの選ぶ100人の偉大な野球選手のランキングにおいて当時の現役選手としては最高位となる34位に選ばれた。 は打率. 306・49本塁打・106打点・長打率. 688、リーグトップの117四球を記録し、チームの3年ぶりの地区優勝に貢献。 とのでは打率. 176とまたも振るわず 、チームは1勝3敗で敗退した。 MVP投票ではチームメイトのに次ぐ2位に入った。 はから6試合連続本塁打 、その間のドジャース戦で通算を達成。 から再び6試合連続本塁打 、のブレーブス戦、の戦で1試合3本塁打を記録。 のドジャース戦でから71号本塁打を放ち、の70本塁打を更新するメジャー記録を樹立。 328・73本塁打・137打点、共にのメジャー記録を更新する177四球・長打率. 863の成績を残す。 しかし打点王は取れなかった。 シーズン最終戦の日の朝、アメリカはを開始したが、テレビ局ニュース記者によれば、アメリカ国民は「誰もアフガンなんて興味もない。 ボンズのホームランに夢中」だった。 チームは地区優勝を逃したが、史上初となる4度目のMVPを受賞した。 守備につくボンズ は開幕から2試合で4本塁打・9打点を記録。 その後ものロッキーズ戦で3本塁打を放つなど好調を維持し、打率. 370・46本塁打・110打点、いずれもメジャー記録を更新する198四球・出塁率. 582・68敬遠四球を記録して自身初のを獲得し、チームの獲得の原動力となる。 ブレーブスとの、とのでは計4本塁打を放ち、チームは13年ぶりのリーグ優勝。 自身初出場となったとのでは打率. 471・4本塁打を記録する活躍を見せるが、シリーズ記録の13四球(内敬遠7)と勝負を避けられ、チームは3勝4敗で敗退し移転後初のワールドチャンピオンはならなかった。 は父ボビーの死去(詳しくは下の「父親との関係」を参照)もあり、若干パフォーマンスが落ちたものの、打率. 341、45本塁打、90打点を記録。 ケントが移籍したこともあり相変わらず勝負を避けられることは多く、61敬遠は前年に自身が記録したものに次いで歴代2位だった。 また6月23日のドジャース戦で通算500盗塁を達成したことで、同時に史上初の 「500-500」を記録した選手となった(2018年現在においても、ボンズ以外には400-400すら達成者はいない)。 前年に続けてチームはポストシーズンに進出したが、地区シリーズでは4試合で8四球(地区シリーズ記録)と歩かされ、敗退した。 は打率. 362、45本塁打、101打点を記録。 40歳で2度目の首位打者を獲得した。 また以前にも増して徹底的な攻めに遭い、120を含む232の四球を記録。 出塁率は6割を超え、OPSは1. 422を記録し、4つのMLB記録を更新。 には史上3人目となる通算700号本塁打を達成した。 は故障でシーズンの大半を欠場。 9月になってようやく復帰したが、わずか14試合の出場に終わる。 これはジャイアンツにとって大きな誤算となり、1996年以来9年ぶりの負け越しを記録することとなった。 には5月28日のロッキーズ戦で715号を放ち、ベーブ・ルースの記録を更新。 シーズン全体では130試合に出場し打率. 270、26本塁打、77打点に終わり、更なる体重増加により守備・走塁能力にも衰えは明らかであったが、115四球はリーグトップ、38敬遠、出塁率. 454はMLB全体トップを記録するなど、打撃技術は健在であることを示して見せた。 2007年、ロッキーズ戦でのボンズ は通算本塁打の記録更新が近付いていたため開幕から注目されていたが、メジャーデビューから22年目の8月4日、の戦での持つ755本のメジャー通算本塁打記録に並ぶ。 それから三日後の8月7日、の戦で投手から756本目となる本塁打をライトスタンドに打ち込み、MLB通算本塁打記録を塗り変えた。 ゲーム中にもかかわらず10分に及ぶセレモニーで新記録を祝い、自らマイクを握って挨拶を行い、「父さん、皆さん、ありがとう!」と締めくくった。 チームメイトとの不和が盛んに囁かれていたが、この時はベンチ総出で祝福されている。 記録更新から約一ヵ月後の9月15日、756号の記念ボールが大方の予想を大きく上回る75万2467ドル20セント(約8600万円)で落札された。 8月28日にオークションが始まった時点での金額は10万ドルだった。 なお、落札者が実施した投票の結果、この記念ボールは参考記録を示す「」マークを付けて野球殿堂に寄贈されることが決まった。 9月21日に、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針、薬物問題によるイメージダウンなどにより、は来期以降の契約を延長しない意思を伝え、シーズン中にも関わらず退団が決定した。 その頃怪我で出場を見送っていたボンズは、26日のパドレス戦にスタメン出場し、3打数無安打に終わった。 結果的にこの日が現役最後の出場となっている。 シーズン全体では打率. 276・28本塁打・66打点を記録。 132四球、43敬遠、出塁率. 480は2006年に続いてMLBトップの記録だった。 ジャイアンツ退団後 [ ] 代理人は「ボンズはプレーする用意がある」との声明を発表し、本人も「まだ引退したつもりは無い」と語ったが、公に獲得を表明する球団は出なかった。 所属球団のないまま迎えた2009年12月11日、最後まで復帰に尽力してきた代理人が「MLBはもう、彼にチャンスを与えないだろう。 私もこれ以上、彼の期待しているような仕事をする自信がない」とコメント。 公式の引退表明こそないものの、以降はプレーしない意思を示しており、形式的な手続きをしていないが当年をもって引退した状態となっている。 にはサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングトレーニングに特別コーチとして参加した。 12月4日、の監督が、ボンズの打撃コーチ就任を発表した。 10月3日、今シーズン限りでの打撃コーチ解任が発表された。 2006年のバリー・ボンズ キャリア初期から中期ともいえる1990年代においては、走攻守全てに際立った力を持つであった。 を5度、を3度、3割40本塁打40盗塁を1度記録している。 このうちは、、、そしてボンズの4名しか達成者がいない。 守備ではを8度獲得した。 とりわけ、1997年のでとの黄金バッテリーから盗塁を奪った事でボンズの高い走力を再確認したファンも多い [ ]。 とはともに、90年代最高の選手としてボンズを選出している(歴代の受賞選手は、、、、ウィリー・メイズ、、など)。 通算7度のMVPのうち、この90年代に3度を獲得した。 2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年からは. 500以上、. 700以上を 4年連続で記録した。 この二つの数字を足したものであるにおいても 1. 200以上を記録、2004年には出塁率. 609、長打率. 812を記録しOPSはMLB記録の 1. 422を記録。 四球記録は自身が3度更新、敬遠数は2度更新、出塁率も2度更新した。 年間100三振に達したのはキャリア一年目の102三振だけで、2001年に73本塁打を記録して以降は本塁打率が大きく上昇したが、2004年には三振よりも本塁打の方が多い(45本塁打41三振)という記録を残した。 無走者での敬遠が41度(うち無死無走者の場面での敬遠が5度 )、2ストライクを取られてから敬遠されたことが5度(うち0ボール2ストライクからフルカウントになり敬遠されたのが3度) ある。 また前述の通り、1998年5月28日の戦では、9回ツーアウト満塁から敬遠された。 打力を物語る話として、新人時代にこんな挿話がある。 パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受けたその週に、ピッツバーグに招かれ当時の本拠地、スリー・リバーススタジアムで打撃練習を行った。 その際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだところ、それを見ていたコーチの一人が、「そんなのは左打者ならみんなできる」と言った。 すると「じゃ、これを見てみな」とレフトへ柵越えを連発した。 野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、ぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」と言った。 チームメイトは違いが分からなかったがボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てた。 逸話 [ ] 性格・態度について [ ] 大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトも陰口を叩いていたという。 マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢いよくやってきて「俺はバリー・ボンズ。 ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。 当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。 それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。 それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな! 」と怒鳴りつけたという。 オットーの新人教育は厳しく、大事な試合でも守備で怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。 しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、シーズン終盤にはオットーと20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。 また、オットーによってクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという。 パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたバンスライク、更にジャイアンツ移籍当時の三塁手はベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある。 1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。 また、現在では、ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いているという。 この専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。 「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。 ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」、「の頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。 MLB史上最強の打者は俺だ」などの発言もある。 ジャイアンツにFA移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、各ピッチャーを指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。 「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった。 2001年4月17日に通算500号本塁打を達成した後日、パイレーツ時代のGMだったから祝福の電話を貰った時には「 あんたが早く俺をメジャーに引き上げてくれていたら、(500号に)もっと早く到達できたんだがね」と言い放ったという。 このようなことから、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしており、チーム内でも孤立しがちであるとされる。 しかし、全米の注目を一身に浴びる中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。 ボンズはマスコミ嫌いでもある。 不振に陥っている時のロッカールームでのインタビューでは記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほど。 本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。 1990・1992・1993年とMVPを獲得するパフォーマンスだったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている(この年MVPを獲得したのは打率. 319・本塁打22・打点86・盗塁10の。 ただし、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手として進出に貢献したことも評価されている)。 1998年のとのの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。 前述の名付け親でもあるを尊敬している。 パイレーツ時代までは彼と同じ 24をつけていた(の背番号24も同じ理由である)。 ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既にになっていた 24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。 2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。 時にユーモラスなジョークなどを言ったりもする一面もある。 友達想いの優しい一面もある。 2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズは戦で68号を放ってダイヤモンドを1周した。 本塁打を打った後天を指差すパフォーマンスで知られているが、この時はいつもよりとりわけ長く天を指差した。 その後ベンチに戻ると泣き出してしまった。 試合後の記者会見では「今日のホームランを亡くなったばかりの友人フランクリン・ブラッドリーに捧げる」と語った。 亡くなったブラッドリーは10年来を務めた親友でもあった。 前日の9月27日に"ありきたりの"外科手術を受けて、を引き起こして亡くなったというのだった。 "ありきたりの"手術と形容したが、ブラッドリーが受けた手術とは、肥満治療のための手術だった。 アメリカではの外科治療が大流行しているからこそ、"ありきたりの"手術と形容したのだが、手術費用は2万5000~3万ドルと言われている。 無保険者にとっては簡単に払える金額ではなく、体重400ポンド(約180kg)と肥満に苦しむ友が治療を受けられるようにと手術費用を援助していたのだった。 日本および日本人選手との交流 [ ] 日米野球で4度来日した他、長い選手生活においては日本や日本人選手と様々な形で関わりを持った。 母国では常に薬物疑惑を取り沙汰されるが、取材する側が日本人の場合はメディアに対しても気さくに応じることがある。 2002年のシーズンのみであったが、ジャイアンツの元チームメイトであるは、孤立しがちなボンズと会話する唯一の人物であった。 新庄は守備練習の時にグラブを手渡しするなどして、積極的にコミュニケーションをとっていたという。 ボンズも打撃練習中に自分が使うマスコットバットを新庄に貸したこともある。 翌2003年に新庄がに復帰した際や引退後にも、好意的なコメントを残している。 2007年のオールスターでは、同地区のライバル球団のクローザーでもあるとロッカーが隣で、斎藤にバットを一本プレゼントした。 斎藤は「バリーは今色々言われていて最初は身構えてしまったけれど、僕が話したバリーはとても気さくな人だった。 バットのスイートスポットをあともうちょっと広くしたいとか色々話してくれた。 」と述懐した。 また、とのツーショットも撮られた。 とは、松井がFAの行使に迷っていた2002年の日米野球で来日した際、「メジャーでも成功するさ。 日本と同じジャイアンツに来てほしい」などとエールを送った。 また松井とは同年の日米野球の試合前に1974年「. 」以来の「日米」が行なわれたが、緊張で本塁打が打てずにいた彼に「肩の力を抜け」とジェスチャーしたり、肩を揉み緊張をほぐす等で気さくに接している。 のには2006年のオフの自主トレの際には自身から声を掛けて色々打撃に関してアドバイスを送っている。 に対しても高い評価をしており、「の安打記録を抜くことに関しては賛否両論があるだろうが、自分はローズ以上の実力者と認めている」と絶賛していた。 は「筋肉増強剤の使用は悪いことだ」と前置きした上で「しかし、以前は禁止されていなかったのだし、第一、ステロイドを使用したからといってだれもがホームランを打てるようになるわけではない」と、ボンズの打撃技術を高く評価している。 Splash Hit [ ] ボンズの象徴とも言えるのライト場外の海(、ジャイアンツの名選手にちなんで ()とも呼ばれる)へ直接打ち込まれる本塁打は" Splash Hit"(スプラッシュヒット)と呼ばれる。 このスプラッシュヒットをボンズは歴代最多の35本を記録した(歴代2位タイの、でさえ通算7本に留まる)。 ボンズの打ち込む本塁打ボールを目当てにで待ち構えるも多く(特にシーズン本塁打記録など歴史に残る本塁打が迫ってくるとまた増える)、また時にはにといういでたちで待ちかまえるファンもいる。 ボンズが今まで数多く記録しているため、一見簡単そうに見えるが全くそうではない。 実際スプラッシュヒットからボンズが記録した分を除くと、ビジターの選手が打った分を含めても、1年あたり約3本しか出ていない。 飛距離そのものとしては370(約113)ほどで可能だが、ライトは25フィート(約7. 6メートル)と高く、常に強いも吹いているため、MLBで最も左打者に不利な球場とも言われている。 バット・使用道具 [ ] バッティングを行うボンズ 2007年より社製のバットを使用。 それまではサムバットを使用していた。 スプリングトレーニングでの試打でSSKのバットを気に入ったボンズは、担当者に自分の使っているバットを手渡し「これと同じように作ってほしい」とその場で3ダースを注文したという。 このバットは富山県のSSKバット協力工場で生産され、50年以上のバット作りの経験を持ち、また社長でもある本居和義らのバット職人によって行われる。 ちなみに長さ86. 6センチ、重量平均915. 0グラム、材質はメイプルである。 大抵のメジャーリーガーは使用するバットにはそれほど神経質にならないといわれているが、ボンズは乾燥度を気にかけ、常に打球音で弾き具合を確認するほどこだわりを持っている。 また、2007年からバットの乾燥度を保つジュラルミンケースも使っている。 また、バットのグリップ部分にテーピングをクロスしてグルグル巻きにしているのが好きらしく、しばしば試合中などにバットに巻いてあるのを確認できる。 バッティンググラブはfranklin社製、ホームでは手の甲がオレンジ、ビジターでは甲がグレーのものを使用。 グラブはwillson社製の黒、ネット部分はグレーのものである。 打席では肘あてを付けている。 足には何も付けていない。 スパイク及びリストバンドは社製を使用。 父親との関係 [ ] バリー・ボンズ(この項では以下、便宜上バリーと表記)の父親は先述の通り'70年代に活躍したメジャーリーガーのであり、バリーは「やるからには、その道のナンバー1になれ」と言われ育てられたという。 また、ボビーはとも交流が深いチームメイトであったという経緯からバリーとメイズは出会うこととなる。 しかし、バリーは幼少期からボビーを非常に慕っていたが、野球で多忙だったボビーは家を空けることが多く、一緒に遊んでもらった記憶がほとんど無いとバリーは語っている。 というのも、バリーが産まれたときボビーはまだ18歳であったため、バリーの幼少期は後に24歳でメジャーデビューするまで必死にマイナーでプレーしていた時期であった。 後にボビーはにかかり、酒が原因で様々なトラブルを起こしてしまい、次第にバリーとボビーは疎遠となっていった。 後にバリーが高校・大学と野球で素晴らしい成績を残してもボビーは振り向いてくれなかったという。 だが、その後ボビーはケアを受けたことでアルコール依存症を克服。 1993年、バリーがサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、ボビーがジャイアンツのバッティングコーチに就任したのを機に2人は和解することとなった。 その後、2人は共に野球人生を歩むことになるが、バリーは先述の教えである「その道のナンバー1になる」つまり、ワールドチャンピオンになることが1度もできずにいた。 そんな中、2002年にボビーはとを発症し、余命幾許も無い状態となる。 ボビーの命のあるうちにを手にしたいという想いから、2002年バリーは必死にプレーし、を受賞する程の活躍をする。 しかし、ジャイアンツはこの年ワールドシリーズには進むもののに敗れ、ワールドチャンピオンとはならなかった。 2003年、バリーは試合以外の時間はボビーの看病をするという生活を続けた。 この年もバリーは必死でプレーし、6月23日史上初の「500-500」を達成。 8月20日にはボビーがジャイアンツの試合を観戦しに来て、この日もバリーは本塁打を打っている。 しかし3日後の8月23日、ボビーは永眠。 バリーはその後1週間バットも握れないほど落ち込んだという。 だが、ボビーの死から1週間後の復帰戦ではから本塁打を打っている。 この年、MVPを獲得したバリーは「このMVPを父に捧げる。 父には本当に感謝している」と涙ながらに語った。 2007年8月7日、756号本塁打を放ち、その後10分間の新記録を祝うセレモニーで、バリーはマイクを握り挨拶を行った。 自身の家族や観客やチームメイトに感謝の言葉を告げ、最後には「 My Dad... Thank you for everything! (父さん... ありがとう、すべてに感謝している)」と締めくくった。 2であったのが1999年から2007年までは9. 2と急上昇している)ことなどから、筋肉増強剤のや(HGH)等のを使用しているとの噂が絶えなかった。 シーズン73本塁打の新記録を作った2001年の時点では、薬物の問題は表面化していなかったが、ボンズの体格が劇的に変化したことは当時からマスコミでも度々取り上げられていた。 プロ入り当時は体重84キロで、98年までは86キロと、体格に大きな変化はなかった。 それがドーピングを始めたと噂される99年から毎年増加し、93キロ・95キロ・103キロと増えつづけ、そして2007年の大リーグ公式サイトの掲載においては109キロにまでなっている。 ボンズが薬物に手をだすきっかけとなったのは、1998年のマグワイアとソーサの本塁打量産対決であるというのが通説である。 1998年、従来の記録であったのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。 その一方でこの年に打率. 人一倍プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨てて本塁打を打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。 1998年のオフ、友人のと食事をした際に、ボンズはそのように語り、ステロイドの使用を開始したことを示唆したとグリフィーが証言している。 こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。 体格が巨大化する前のボンズ 最初にそれを公衆の面前に晒したのは1999年の春季キャンプでのことで、前年のシーズン終了時とは見るからに違う体格をしていたボンズに対して地元記者が質問すると、「いつもと同じことをしただけだが、やり始めたのが少し早かった」とだけ答えている。 投与に関ったとされるのは米国の栄養補助食品会社(BALCO: Bay Area Laboratory Co-operative)で、ボンズは1998年半ばから幼馴染のをウエイトトレーニング・コーチとして雇い入れていた。 当時すでにアンダーソンは後に告発されるバルコ社の創設者と深いつながりを持っており、陸上競技などでは禁止されていた化学薬品をボンズに与えていたという。 詳細は「」を参照 2006年3月23日に紙記者2人によるボンズの薬物使用に関する『』が出版された。 同著では、ボンズは1999年から少なくとも5年以上にわたり、(THG)、クリーム(クリアとセットで使用)、HGH、、、、、、、と様々な薬物を使い続けたと述べられている。 2007年1月11日、ボンズが2006年度の検査で禁止薬物の(グリーニー)に陽性反応を示していたことが報道された。 2003年にバルコ社の禁止薬物の販売に関する大陪審で禁止薬物を故意に使用したことはないという証言について、アメリカ連邦大陪審は2007年11月15日にで起訴した。 ボンズと同様にバルコ社からドーピング投与を受けた疑惑をもたれていた女子陸上競技選手もドーピングしていたことを既に認めており、金メダルを返還して引退している。 なお偽証罪の直接の訴因は「 薬物を使用したこと」ではなく、「 薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」ことである。 同年12月13日に発表されたに実名で取り上げられた。 ボンズは報告書作成時の調査に関連した聴取を拒否した事に加え、禁止薬物の使用の疑いについて書かれた質問に対する応答を拒否したとされている。 ボンズの裁判は2011年3月21日から始まった。 サンフランシスコ連邦地裁の陪審は2011年4月13日、訴えられた罪状4件のうち、1件のみ有罪とする評決を下し、他の3件の偽証罪は陪審不一致で裁判不成立となった。 薬物使用が意図的なものだったかどうかは明らかにならなかった。 元専属トレーナーのアンダーソンは黙秘を貫き、ボンズが「そうと知って使ったことはない」と証言したので、その容疑を立証しなければならなくなり、困難を極めた。 裁判中に証言した1994年から2003年にかけて交際していた女性によると、1999年の肘の故障はステロイドの使用を開始したことによる急激な筋肉増強が肘に負担を与えたことが原因だと語ったという。 2011年12月15日に2年間の保護観察処分と30日間の自宅謹慎が言い渡された。 また、4000(約30万円)の罰金も科された。 2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した。 疑惑に対する周囲の反応 [ ] 薬物疑惑が強まり、ルース、アーロンの通算本塁打数に迫るにつれて、ファンや米メディアの反応も厳しくなり、敵地の球場では、別扱いの参考記録を表す「*」マークやドーピング注射器が描かれたボードを掲げてボンズを野次る観客が多数出現するようになった。 ボンズの守っているレフトに注射器が投げ込まれたこともある。 「ベーブ・ルースはホットドッグとビールでやってのけた。 ハンク・アーロンは上品にやってのけた。 (暗に薬物を指して)お前はどうやってやったんだ?("Babe Ruth did it on hot dogs and beer. Hank Aaron did it with class. How did you do it? ")」と揶揄されたりもした。 一方で、選手たちの反応はおおむね正反対である。 ここにその現役選手たちのコメントを一部列挙する。 「彼は凄く簡単そうにボールを打っているけど、実際は難しいんだ。 どうやったらあれだけ安定したスイングを出来るのか俺には分からない。 ステロイドを使った選手は他にもいるけど、ボンズに匹敵する奴は誰もいない」「ステロイドを使っている他の選手のスイングに比べたら、ボンズがステロイドのおかげだけでホームランを打っているとは思えない。 「度重なる薬物検査の下、人間離れしたスウィングで僕らを驚かせるんだから、彼は本物だよ。 素晴らしい動体視力とタイミングでボールを捉え続ける。 「皆と同じようにステロイドの使用については疑っている。 だが、それと彼の打者としての偉大さは別さ」「打てる球が1試合に2球くらいしかないのにそれを本塁打にする。 そもそも、ステロイドの使用を開始した1999年より前の時点でボンズは既に殿堂入りに値する成績を残しており、元々ずば抜けた実力を持っていた選手であることにも留意すべきである。 また、2007年シーズンにおいても当時メッツのが禁止薬物での50試合の出場停止処分を受けているように投手の禁止薬物使用も相当数に上っていることや、ボンズが薬物を摂取していたとされる2000年前後はまだ筋肉増強剤はMLBの禁止薬物に指定されてはおらず、使用の是非とは別にボンズをはじめとしたMLBの選手たちは、その当時、筋肉増強剤を使用することにルール上は何も問題はなかったこともまた見逃せない事実である。 薬物使用が確実視される中での記録達成とあって、周囲の反応が注目されたが、アーロンの記録を破った試合の視聴率はわずか1. ちなみに、ハンク・アーロンがベーブルースの記録を破ったときにNBCが放送した試合の視聴率は、22. のも球界の最高権力者という立場上、明言はしていないがアーロン同様その場にいたくないとの気持ちは隠しようがないといった感じで対応に戸惑っていた。 言葉では「記録更新の瞬間にできる限り立ち会うつもりでいる」「試合への尊敬、記録の大きさ、この国ではすべての市民が有罪とされるまでは潔白であることから、私は彼が記録を更新する可能性があるかを見るために次の試合に立ち会う。 記録がタイになった時点で追加声明を発表する」との声明文を発表していたが、否定的なスタンスを取り続けていた。 755号を放った試合もセリグは観戦していたが、他の観客と違い拍手もせずポケットに手を突っ込んだままの姿で、神妙な面持ちだった。 756号を放った試合においては結局セリグはと面会するという名目で球場には姿を見せず、代理を送っていた。 また、この疑惑が強くなる中、他の選手の記録の正当性にも疑惑が示され、実はシーズン本塁打記録はの61本のままではないかという議論も起きた。 2005年には議会がメジャーリーグ機構にマリスの記録が正当であると主張する事態となった。 殿堂入り論争 [ ] 引退後5シーズンが経過し、に入り資格を得た。 しかし、ステロイド使用が確定しているボンズに対して、殿堂入りを認めるかどうかの議論が投票前から盛んに行われた。 これにより初年度の殿堂入りは絶望的な状況となった。 反対派の中にも今後考えが変わる可能性はあると回答した記者も多く、論争の決着が付いたとは言えない状況である。 2013年1月9日、殿堂入りの投票結果が発表されたが、事前の調査よりも少ない36. 殿堂入りを認める主張としては「ドーピングを始める前から、長期に渡って素晴らしい成績を残していた」「当時はステロイドが禁止されておらず、ドーピングが蔓延しており、誰が白で誰が黒かを明確に特定することは不可能」「既に殿堂入りした選手や、殿堂入り候補の選手の中にも、発覚していないだけで薬物を使用していた選手は確実に存在する」「純粋に数字だけで判断すべき」「野球殿堂は負の歴史も受け入れるべき」などがある。 一方で、殿堂入り反対派は「どのような事情があろうとも、薬物使用が判明した選手の殿堂入りは認めるべきでない」という主張を展開している。 また、が設けた殿堂入りの選考基準「記録、能力、誠実さ、スポーツマンシップ、人格、チームへの貢献(the player's record, playing ability, integrity, sportsmanship, character and contributions to the team[s] on which the player played)」のうち誠実さ、スポーツマンシップ、人格の3つを満たしていないと指摘される。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 113 484 413 72 92 26 3 16 172 48 36 7 2 2 65 2 2 102 4. 223. 330. 416. 746 150 611 551 99 144 34 9 25 271 59 32 10 0 3 54 3 3 88 4. 261. 329. 492. 821 144 614 538 97 152 30 5 24 264 58 17 11 0 2 72 14 2 82 3. 283. 368. 491. 859 159 679 580 96 144 34 6 19 247 58 32 10 1 4 93 22 1 93 9. 248. 351. 426. 777 151 621 519 104 156 32 3 33 293 114 52 13 0 6 93 15 3 83 8. 301. 406. 565. 971 153 634 510 95 149 28 5 25 262 116 43 13 0 13 107 25 4 73 8. 292. 410. 514. 924 140 612 473 109 147 36 5 34 295 103 39 8 0 7 127 32 5 69 9. 311. 456. 624 1. 080 159 674 539 129 181 38 4 46 365 123 29 12 0 7 126 43 2 79 11. 336. 458. 677 1. 136 112 474 391 89 122 18 1 37 253 81 29 9 0 3 74 18 6 43 3. 312. 426. 647 1. 073 144 635 506 109 149 30 7 33 292 104 31 10 0 4 120 22 5 83 12. 294. 431. 577 1. 008 158 675 517 122 159 27 3 42 318 129 40 7 0 6 151 30 1 76 11. 308. 461. 615 1. 076 159 690 532 123 155 26 5 40 311 101 37 8 0 5 145 34 8 87 13. 291. 446. 585 1. 031 156 697 552 120 167 44 7 37 336 122 28 12 1 6 130 29 8 92 15. 303. 438. 609 1. 047 102 434 355 91 93 20 2 34 219 83 15 2 0 3 73 9 3 62 6. 262. 389. 617 1. 006 143 607 480 129 147 28 4 49 330 106 11 3 0 7 117 22 3 77 6. 306. 440. 688 1. 128 153 664 476 129 156 32 2 73 411 137 13 3 0 2 177 35 9 93 5. 328. 515. 863 1. 378 143 612 403 117 149 31 2 46 322 110 9 2 0 2 198 68 9 47 4. 370. 582. 799 1. 381 130 550 390 111 133 22 1 45 292 90 7 0 0 2 148 61 10 58 7. 341. 529. 749 1. 278 147 617 373 129 135 27 3 45 303 101 6 1 0 3 232 120 9 41 5. 362. 609. 812 1. 422 14 52 42 8 12 1 0 5 28 10 0 0 0 1 9 3 0 6 0. 286. 404. 667 1. 071 130 493 367 74 99 23 0 26 200 77 3 0 0 1 115 38 10 51 9. 270. 454. 545. 999 126 477 340 75 94 14 0 28 192 66 5 0 0 2 132 43 3 54 13. 276. 480. 565 1. 045 :22年 2986 12606 9847 2227 2935 601 77 762 5976 1996 514 141 4 91 2558 688 106 1539 165. 298. 444. 607 1. 051• 各年度の 太字はリーグ最高、 赤太字はメジャー歴代最高• 2006年と2007年の出塁率は規定打席に届いていないが、残りの打席全てが凡退と仮定してもリーグ1位になるためメジャーリーグ特別規定によりリーグ最高 タイトル [ ]• 2回:2002年、2004年• 2回:1993年、2001年• 1回:1993年 表彰 [ ]• 7回:1990年、1992年 - 1993年、2001年 - 2004年• 12回:1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、2000年 - 2004年• 8回:1990年 - 1994年、1996年 - 1998年• 3回:2001年 - 2002年、2004年• :2004年• 13回:1990年7月、1991年7月、1992年4月・9月、1993年4月、1996年4月、1997年7月、2001年5月・9月、2002年8月、2003年7月、2004年4月・8月• ナ・リーグ週間MVP 13回• Player of the Year 2回:2001年、2004年• NL Outstanding Player 4回:1993年、2001年 - 2002年、2004年• NL Comeback Player 1回:1992年• The Sporting News• Major League Players of the Year 3回:1990年、2001年、2004年• NL Players of the Year 2回:1990年 - 1991年• NL All-Star Teams12回:1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、2000年 - 2004年• Player of the Decade:1990年代• All-Decade Team:2000年代• Baseball America• MLB Player of the Year 3回:2001年、2003年 - 2004年• First-Team Major League All-Star OF 7回:1993年 - 1994年、2000年 - 2004年• Baseball Digest• Player of the Year 3回:1993年、2001年 - 2002年• All-Decade Team:2000年代• All-Decade Team:2000年代• Yahoo! Sports• All-Decade team:2000年代• Athlete of the Year 1回:2001年• Player of the Year 2回:1992年 - 1993年• All-Star Award 5回:1990年 - 1993年、2000年• :2006年 記録 [ ]• 選出 13回:1990年、1992年 - 1998年、2000年 - 2004年、2007年 保持記録 [ ]• 通算本塁打数 762:2013年終了時点(歴代1位、に認定 )。 シーズン本塁打数 73:2001年• 異なる投手からホームラン 449• 40歳以上でのホームラン 74• 43歳でのホームラン 28• シーズン30本塁打以上 13年連続:1992年 - 2004年• シーズン長打率. 863:2001年• ワールドシリーズでの長打率 1. 294, 2002• シーズン長打率. 600以上 8年連続, 1998—2005• シーズン出塁率. 609:2004年• シーズン四球数 232:2004年• シーズン敬遠数 120:2004年• 連続四球数 18試合• MVP受賞 7回:1990, 1992—93, 2001—04• MVP受賞 4年連続 2001—04• ナ・リーグ月間MVP選出 13回• 最年長首位打者初獲得 38歳 2002• シーズン 1. 422:2004年• 4年連続で出塁率5割以上:2001年 - 2004年• 4年連続で長打率7割以上:2001年 - 2004年• 40-40(40本塁打40盗塁):1996年(史上4人)• 史上初となる 500-500(500本塁打500盗塁)を達成• 40歳での、獲得はともにメジャー最高齢記録:2004年• 通算四球数 2558• 通算敬遠数 688 合同記録 [ ]• 連続四球:7• 連続出塁:15• (30本塁打30盗塁) 5回:1990年、1992年、1995年 - 1997年(父と並び大リーグ最多記録)• 同一ポストシーズン本塁打数 8:2002年 背番号 [ ]• 7 1986年• 24 1987年 - 1992年• 25 1993年 - 2007年, 2016年 脚注 [ ] []• Johnston, Joey 2004年9月. 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真面目な話、バリーボンズってどれくらい凄いんや?

バリー ボンズ

来歴 [ ] にに入団。 、での戦で「7番・ライト」でメジャーデビュー。 3打席目でメジャー初安打となるを打った。 はリーグトップの120を記録したがも多く、当時メジャー記録の187三振を喫してしまう。 翌には自己記録を更新する189三振を記録。 この記録はにのが195三振を記録するまでメジャー記録だった。 には球団新記録の48を記録。 翌は33本塁打、102を挙げチームの地区優勝に貢献するが、でに1勝3敗で敗れた。 結局、この年が唯一の進出となった。 は先頭打者本塁打11本を含む39本塁打を記録。 シーズン先頭打者本塁打11本は、現在も記録である。 では5回に2ラン本塁打、7回に二塁打を打ち、を受賞した。 またこの年43盗塁を記録し、自身初の「」を達成。 に移籍したにも32本塁打・30盗塁で「30-30」を達成し、両リーグで達成した初の選手となった。 通算では5回達成しており、息子のバリーと並ぶ最多記録。 親子で「30-30」を達成したのもボンズ親子が初めてでかつ2016年現在では唯一の例である。 ただし、バリーが3回記録したは打率3割を1度しか記録していない(1970年、48盗塁したが本塁打26本で逃す)こともあり、縁がなかった。 ヤンキースに移籍後は7年間で7球団を渡り歩き、に引退。 にはに次いで史上2人目の「」を達成。 後にバリーも300本塁打・300盗塁をクリアしており、これも親子での達成となった。 先頭打者本塁打が35本。 これは2006年シーズン終了時点では歴代4位の記録。 引退後、からまでの打撃コーチを務め、にはバリーが入団したジャイアンツのコーチに就任した。 、とのため57歳で死去した。 当時としては珍しくないが、現役時代から習慣があった。 兄のロバート・ボンズは選手、姉のロジー・ボンズは1964年にも出場した陸上の選手である。 息子はバリーの他、リック・ボンズとボビー・ボンズJrがいる。 ボビーJrも野球選手であったがメジャーには昇格できなかった。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 81 349 307 55 78 10 5 9 125 35 16 7 1 2 38 0 1 84 0. 254. 336. 407. 743 158 720 622 120 161 25 6 32 294 90 45 4 3 4 81 3 10 187 9. 259. 351. 473. 824 157 745 663 134 200 36 10 26 334 78 48 10 1 2 77 7 2 189 6. 302. 375. 504. 879 155 691 619 110 178 32 4 33 317 102 26 8 0 5 62 6 5 137 10. 288. 355. 512. 867 153 697 626 118 162 29 5 26 279 80 44 6 1 5 60 4 5 137 13. 259. 326. 446. 772 160 738 643 131 182 34 4 39 341 96 43 17 0 4 87 9 4 148 8. 283. 370. 530. 900 150 670 567 97 145 22 8 21 246 71 41 11 0 4 95 8 4 134 4. 256. 364. 434. 798 145 626 529 93 143 26 3 32 271 85 30 17 0 5 89 8 3 137 10. 270. 375. 512. 888 99 427 378 48 100 10 3 10 146 54 30 15 0 5 41 6 3 90 7. 265. 337. 386. 723 158 679 592 103 156 23 9 37 308 115 41 18 1 10 74 5 2 141 9. 264. 342. 520. 862 26 102 90 8 25 4 0 2 35 8 6 2 1 1 10 1 0 10 2. 278. 347. 389. 735 130 555 475 85 126 15 4 29 236 82 37 20 2 7 69 6 2 110 12. 265. 356. 497. 853 '78計 156 657 565 93 151 19 4 31 271 90 43 22 3 8 79 7 2 120 14. 267. 355. 480. 834 146 631 538 93 148 24 1 25 249 85 34 23 4 7 74 4 8 135 9. 275. 367. 463. 830 86 270 231 37 47 5 3 5 73 24 15 5 1 3 33 3 2 74 4. 203. 305. 316. 621 45 190 163 26 35 7 1 6 62 19 5 6 1 0 24 5 2 44 4. 215. 323. 380. 703 :14年 1849 8090 7043 1258 1886 302 66 332 3316 1024 461 169 16 64 914 75 53 1757 107. 268. 353. 471. 824• 各年度の 太字はリーグ最高 表彰 [ ]• 3回 (1971年、1973年、1974年) 記録 [ ]• :5回(1969年、1973年、1975年、1977年、1978年)• 3回出場 (1971年、1973年、1975年)• (1973年) 脚注 [ ] [].

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